享禄3(1530)年~ 天正6(1578)年。越後(新潟県)を中心に勢力を張った戦国大名。守護代として実質的に越後を支配していた長尾為景の次男(三男あるいは四男とも)として生まれた。元服後はじめの諱は景虎。病弱だった兄晴景から家督を引き継ぎ、反対勢力を倒して越後を統一。その後は甲斐の武田氏や関東の後北条氏、越中一向一揆などと激しく争い、特に武田信玄との5度にわたる川中島の戦いは、後世、数多くの物語や詩歌で取り上げられ、広く知られている。

永禄4(1561)年閏3月には、後北条氏に敗れて景虎の保護を受けていた関東管領上杉憲政の養子となって山内上杉家の家督と関東管領の職を相続し、「上杉政虎」と改名、さらに同年12月には将軍足利義輝から輝の字を賜わり「上杉輝虎」と改名、元亀元(1570)年には出家により法号「不識庵謙信」を名乗る。晩年には西へ勢力を拡大し、越中・能登を攻略、天正5(1577)年には加賀の手取川で柴田勝家率いる織田軍を撃破したが、翌年3月、遠征準備中に厠で倒れ、死亡した。

救援を求める大小名の要請に応じて各地へ出兵したこと、朝廷や幕府の権威を重んじ秩序の回復を目指したこと、塩不足に苦しむ敵の武田信玄に塩を送った「敵に塩を送る」のエピソードなどから利益より義理を重んじる「義将」として評価されることが多い。