大永元(1521)年~ 元亀4(1573)年。甲斐(山梨県)を中心に勢力を持った戦国大名。諱(名乗)は晴信。信玄は出家後の法名。甲斐の守護大名武田信虎の嫡子として生まれ、天文10(1541)年には家臣団に擁立されて父信虎を隣国駿河へ追放し武田家当主となる。駿河の今川氏・相模の北条氏と「甲相駿三国同盟」を結んで信濃へ進出し、信濃の豪族からの救援要請に応じた越後の長尾景虎(上杉謙信)との間で5度にわたる川中島の戦いを繰り広げた。 永禄11(1568)年には桶狭間の敗北以降衰退していた今川氏との同盟を破棄して駿河へ侵攻し、同時に遠江へ侵攻した徳川家康と今川領を分割した。信玄の領土は甲斐を中心に信濃の大部分、駿河、西上野、遠江・三河・飛騨・越中の一部まで広がった。元亀3(1572)年には、織田信長と対立した将軍足利義昭の信長討伐の求めに応じて西上作戦を決行、元亀3年12月(1572年1月)には三方ヶ原で徳川家康軍に圧勝し、さらに東三河の野田城を落としたものの、持病の悪化により陣中で亡くなった。