天保10(1839)年~慶應3(1867)年。幕末の長州藩士。吉田松陰の松下村塾に学び、久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧と称せられた。文久2(1862)年には藩命により上海へ渡航し、列強の侵略が進む清国の実状を見聞し大きな影響を受けたという。文久3(1863)年、身分を問わない志願兵による常備軍の「奇兵隊」を結成、元治元年12月(1865年1月)の功山寺挙兵により佐幕派の藩首脳部を打倒、 慶応2年(1866年)の四境戦争(第2次長州征伐)では奇兵隊を率いて幕府軍を敗走させるなど活躍したが、肺結核のため満27歳の若さで亡くなった。号は東行(平安時代の歌人西行のもじり)が有名だが、ほかに楠樹、西海一狂生、東洋一狂生など。