永禄10(1567)年~ 寛永13(1636年)。出羽・陸奥の戦国大名、江戸時代仙台藩の初代藩主。幼少時に天然痘のため右眼を失明したため、後世、「独眼竜」と称される。

天正12(1584)年、父から家督を継ぐと近隣勢力をつぎつぎと攻略し、 わずか5年ほどで150万石もの大領国を築き上げた。その頃、中央ではすでに豊臣秀吉が天下統一を目前にしており、各地の大名に服属を求めていた。政宗は当初それを無視していたが、最終的には、北条氏の居城小田原を包囲中の秀吉のもとに参陣して臣従を表明した。これにより取りつぶしは免れたが、服属が遅れたため減封となり、徳川や毛利など他の大大名のように豊臣政権下で枢要を担うこともなかった。

豊臣秀吉死後、徳川家康に接近、慶長5(1600)年の関ヶ原の役では、秀吉に没収された旧領の自力奪還を家康に認めさせた上で東軍につき、西軍の上杉景勝と奥州で戦ったが、関ヶ原の戦い自体が1日で終わってしまったこともあり、旧領の回復はならなかった。

関ヶ原の翌年には仙台城を築いて本拠地を移し、仙台藩の藩祖となった。慶長18(1613)年には、スペインの協力のもと西洋型軍船を建造し、家康の承認を得て、家臣支倉常長らをメキシコ・スペイン・ローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。晩年は領国の開発に力を入れ、農地の開拓などによって米の増産に成功し、仙台藩繁栄の礎を築いた。