作者


原文

爾靈山

爾靈山險豈難攀
男子功名期克艱
鐵血覆山山形改
萬人齊仰爾靈山

訓読

爾霊山

爾霊山 険なれども 豈に攀ぢ難からんや
男子の功名 艱に克つを期す
鉄血 山を覆ひて 山形 改まり
万人 斉しく仰ぐ 爾霊山

爾霊山

爾霊山は険阻ではあるが、どうしてよじ登れないことがあろうか
男子が功名を立てようとするときは、困難に打ち克つことを決心するものだ
砲弾の鉄と兵士の血とが山を覆い尽くし、山の形まで変わったほどの激戦が終わり
いまは万人だれもがそろって爾霊山を感慨深く仰ぎ見るのだ

爾霊山:二〇三高地(にひゃくさんこうち / にまるさんこうち)。「に・れい・さん」の当て字として「爾(なんじ)の霊の山」と呼んだもの。旅順市街の西北2kmほどに位置する丘陵地で、標高が203mであることから「二〇三高地」と名付けられた。日露戦争の旅順攻囲戦における激戦地。乃木率いる第三軍は1904年11月28日から攻撃を開始し、甚大な損害を出した末に12月5日高地を占領した。11月29日から攻撃に参加した第七師団は当初の15000人の兵力が最終的に約3000人にまで減少したという。
攀:よじ登る。ここでは当然、単なる登山ではなく、二〇三高地を制圧することを意味する。
鐵血:鉄は武器・弾丸、血は兵士の血。
齊:ひとしく。そろって。

餘論

先日、山県有朋乃木を激励した詩を紹介した際に、乃木の「爾靈山」詩に触れたので、今回はその「爾靈山」詩を紹介します。

巷間よく知られている見方では、二〇三高地攻略が旅順攻囲戦の最大のターニングポイントであり、これにより旅順港にひそむロシア艦隊を砲撃で壊滅させることが可能になった上、旅順要塞そのものの防御も大きく損なわれ、旅順陥落につながったとされています。司馬遼太郎の『坂の上の雲』もこの見方に基づいており、現代においてはその影響が大きいものと思われますが、この見方自体は戦前からすでに定着していました。ためしに、昭和17年刊行の『愛國詩歌』(井上萬壽蔵著)をひもとくと、「爾靈山」詩の解説でこう言っています。
しかしこの山の占領は旅順陷落を早めたもので、その功績はまことに偉大なもので、これを思へば萬人の人々が感慨を深うして齊しく仰ぐ爾靈山であるという意。

二〇三高地の占領が旅順の陥落を早めた、と述べており、上記の見方と軌を一にしています。

ところが、旅順陥落後の日本軍の調査の結果では、旅順のロシア艦隊はすでに黄海海戦での損傷によりほぼ壊滅しており、二〇三高地を観測点とした砲撃による新たな損害はほとんどなかったことが明らかになっていました。ただ、この事実が一般に広まることはなく、むしろ、「最大の犠牲を払った戦いには当然最大の戦略的意義があった」という受け入れやすい見方のほうが広まったのだろうと思われます。

二〇三高地攻略の実際上の戦略的意義の軽重あるいは有無についてはいろいろな見方があり得るでしょうが、この日本史上空前の壮絶な戦いとその甚大な被害が、戦いに直接間接に関わった人々ひいては日本人全体に与えた影響はとてつもなく大きなものであったことは間違いありません。だからこそ、乃木のこの詩は広く人口に膾炙したのでしょう。

この詩は勝者の詩ですが、決して明るい詩ではありません。むしろ哀感にあふれています。「爾の霊の山」の「爾(なんじ)」は当然、この戦いで命を落とした兵士たちのことです。その中には乃木自身の次男・保典も含まれます。そして、おそらく、「爾」には敵であるロシア兵も含まれるのではないかと思います。結句で「萬人」のうちの一人として「爾靈山」を仰ぐ乃木のまなざしは、他の誰よりも痛切なものだったでしょう。戦後、凱旋した乃木は、「自刃して多数の将兵の命を失った罪を償いたい」と上奏し、明治帝から「死ぬなら朕の死後にせよ」ととどめられたと伝わっています。

なお、近体詩では「同字重出」を禁忌としますが、この詩のように、起句冒頭と結句末尾を同じ字句(ここでは「爾靈山」)でそろえる場合はレトリックとして許されます。また転句も「山」字が連続していますが、これもレトリックとして認められるでしょう。もっとも、そのような問題などどうでもいいと思わせてしまう「重さ」をこの詩は持っています。