徳川光圀の漢詩 詠日本刀(日本刀を詠ず)

作者

原文

詠日本刀

蒼龍猶未昇雲霄
潛在神州劔客腰
髯虜欲鏖非無策
容易勿汚日本刀

訓読

日本刀を詠ず

蒼龍 猶ほ未だ雲霄に昇らず
潜んで 神州 剣客の腰に在り
髯虜 鏖(みなごろ)しせんと欲すれば策無きに非ず
容易に汚す勿れ 日本刀

日本刀を詩によむ

蒼い龍にもたとえるべきこの刀はまだ天には昇らず
淵に潜んで時を待つ龍のように剣客の腰で鞘におさまっている
ひげ面の野蛮人どもを皆殺しにしようと思えば策がないわけではない
血気にはやって大事な日本刀を簡単にけがしてはならないのだ

雲霄:大空。天。龍は時機を得るまでは深い淵にひそみ、時が来ると天へかけのぼる。
神州:神がつくり、神が守る国。日本。
髯虜:ひげ面の野蛮人。
:みなごろしにする

餘論

この詩のように、物を題材にして作る詩を「詠物詩」といいます。単純に題材を説明するだけでは、平凡でつまらない詩になるため、題材の物に託して自らの感慨や信念を述べるというのが詠物詩によくあるパターンです。

詩の言葉づかいだけ見ると、まるで幕末の尊王攘夷の志士の作った詩かと思ってしまいますが、実は17世紀、水戸黄門さまの詩です。「みなごろしにする」などと物騒な言葉がでてきますが、最終的な主張は「安易に武力を用いるな」ということですから、実は穏健な内容ともいえます。

寛永16(1639)年にいわゆる「鎖国」が成立していますが、正保元(1644)年、光圀17歳のときに、外国船が長崎を侵す事件があり、延宝元 (1673)年、光圀46歳のときには英国船リターン号が長崎に来航し、通商再開を求めたものの幕府がこれを拒絶するという事件がありました。このような状況を背景にしてこの詩が詠まれたわけですが、実際にはリターン号事件以降、100年以上、オランダ以外の西洋諸国の船が日本に来航することはなくなります。黄門さまの戒めのとおり、日本刀を血で汚さなかったのは正解でした。もし手荒なことをして武力衝突など起きていれば、その後の100年は全く別のものになっていた可能性があります。

なお、転句、文法的に正確な表現にすれば「欲鏖髯虜非無策」となりますが、これでは平仄が合わないため「髯虜」を前にもってきて「髯虜欲鏖非無策」となっています。