勝海舟(かつ かいしゅう)
文政6(1823)年~明治32(1899)年。幕末~明治の武士、政治家。通称は麟太郎、諱はもともと義邦、維新後に安芳とあらためた。海舟は号。旗本の家に生まれ、蘭学を学んで才能をあらわし、安政2(1855)年には長崎海軍伝習所に入所して海軍について学んだ。安政6(1859)年には江戸にできた軍艦操練所の教授方頭取となり、万延元年(1860年)には咸臨丸に乗船して渡米して、日本と全く異なる政治、経済、文化、社会を見聞して知識を深めた。帰国後はしばらく海軍から離れたが、文久2(1862)年に海軍に復帰し、閏8月には軍艦奉行並に就任、兵庫での海軍操練所建設を幕府首脳に提案し、翌年4月、神戸海軍操練所の設立許可が下り、あわせて勝の私塾の開設も許された。操練所に先立って開かれた私塾「海軍塾」には各藩からの脱藩者などが出入りし、坂本龍馬や陸奥宗光、伊東祐亨(のちの初代連合艦隊司令長官)らが学んだ。元治元(1864)年5月には軍艦奉行に昇格、神戸海軍操練所も発足したが、幕府首脳が勝の政治構想を問題視するようになり、11月には軍艦奉行を罷免された。海軍操練所と海軍塾も翌慶應元(1865)年3月に閉鎖された。大政奉還を経て、慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が始まると、朝廷への恭順を決めた徳川慶喜から陸軍総裁を任され、新政府軍の西郷隆盛と交渉して徳川宗家の存続を認めさせて江戸城の無血開城を実現し、住民を戦火から救った。維新後は旧幕臣の代表格とみなされ、政府からの求めに応じて参議や海軍卿、元老院議官、枢密院顧問官などを歴任したが、ほとんど短期間で辞職し、目立った実績は残さなかった。一方で、旧幕臣の就労支援や生活援助などの活動を長く続けたほか、戊辰戦争で朝敵となった徳川慶喜の赦免や西南戦争に敗れて逆賊となった西郷隆盛の名誉回復のために奔走し、いずれも実現している。明治20年(1887年)5月、伯爵に叙せられ、明治23年(1890年)7月には貴族議員に当選するが辞退している。明治32年(1899年)1月19日、脳溢血で亡くなった。
⇒ 勝海舟の漢詩
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