文政12(1829)年~慶応元(1865)年。幕末の武士。半平太は通称(通り名)、諱(名乗)は小楯。号は瑞山。土佐藩の白札郷士(上士待遇)の家の生まれ。剣術、学問にすぐれ、道場をひらいて門弟を指導し、郷士の間で人望が厚かった。尊王攘夷思想に傾倒し、文久元(1861)年8月、江戸で、一藩勤王をかかげる「土佐勤王党」を結成、翌月土佐へ帰ると坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめとする200人近い同志を集めた。

当時の土佐の藩政は開国・公武合体派の吉田東洋が握っていたので、武市は一藩勤王実現のため、東洋が進める藩政改革で既得権益を奪われることに反発していた守旧派に接近し、東洋打倒のために手を結ぶ。文久2年4月、武市の指示により土佐勤王党員が吉田東洋を暗殺、それに呼応して守旧派が藩庁から東洋派を一掃して藩政の実権を掌握した。

土佐藩政の主導権を握った武市は、日本全国で高まる尊王攘夷の機運に乗じ、長州藩や公家の三条実美、姉小路公知らと連携して攘夷の実現のため奔走した。しかし、文久3年、八月十八日の政変で長州派の公卿が失脚し中央政界での実権が尊攘派から公武合体派へ移ると、それまで土佐勤王党の活動を黙認していた前藩主山内容堂が勤王党の弾圧に乗り出し、武市も捕えられて投獄された。吉田東洋暗殺などの容疑での取り調べに対し、最後まで否認を貫いたが、結局、「主君に対する不敬」という名目で切腹を命じられた。