天保5(1835)年~ 明治34(1901)年。明治時代の思想家、教育家。中津藩の下級武士の家に生まれた。大阪で緒方洪庵の適塾に蘭学を学び、猛烈な勉強で22歳の時、最年少で塾頭となったが、その後、国際的に広く使用されているのはオランダ語ではなく英語であることを知り、英語の学習に切り替えた。万延元(1860)年の咸臨丸の米国への渡航、文久2(1862)年の文久遣欧使節の派遣に同行し、欧米の社会や政治、文化を学び、帰国後は『西洋事情』などの著書を通じて欧米の進んだ社会制度や機械文明を広く紹介するとともに、幕府で翻訳などの仕事についた。王政復古後は新政府から再三出仕を求められたが応じず、士族もやめて平民となった。慶應4(1868)年、慶應義塾をひらき、教育活動を本格的に進めた。また、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』などの著作を通じて国民をひろく啓蒙した。