天文2(1533)年~慶長17(1612)年(他に諸説あり)。戦国末期から江戸時代初期にかけての武将。諱は利益(とします)のほか、利太(としたか)、利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)など、通称は慶次、慶次郎、啓二郎、宗兵衛など。現在では隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」やそれを原作とした原哲夫の漫画「花の慶次」で有名。

織田信長の重臣滝川一益の一族に生まれた(実父が誰であるかは諸説あり不明)が、前田利家の兄利久の養子となった。養父前田利久はもともと尾張国荒子城の城主であったが、信長の命により弟利家に城を譲り隠居させられ、このとき慶次も父利久とともに荒子城を退去した。その後、天正9(1581)年、能登一国を拝領した利家に、父利久とともに仕えることとなり五千石を与えられた。

その後、前田家の家臣として小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加したが、天正18(1590)年以降、前田家を出奔し、京都で浪人生活を送った。慶長3(1598)年から慶長5(1600)年までの間に会津の上杉景勝に仕官し、関ヶ原の役の際は最上・伊達と戦った長谷堂城の戦いで活躍した。関ヶ原の戦後処理で上杉家が米沢30万石に減封された後も上杉家に従い、慶長17(1612)年に亡くなったとされる(晩年については諸説あり)。

数多くの文人と交流があり、和歌や連歌をたしなんだ。慶長6(1601)年に京都から米沢へ向かった際には道中日記(「前田慶次道中日記」)を残しており、そこには行く先々の風俗、伝説を紹介しながら、自作の和歌や俳諧、漢詩を書きつけ、当時の武士としては高い教養のある人物であったことがわかる。

数々の奇行やいたずらが伝説として伝えられており、前田慶次の代名詞となっているが、どこまでが真実かは不明である。だがそれがいい。