大田南畝の漢詩(1) 上巳土山氏曲水宴同山道甫賦(上巳、土山氏の曲水宴にて山道甫と同に賦す)
作者
大田南畝
原文
上巳土山氏曲水宴同山道甫賦
曲水流觴憶永和
閑庭藉草興偏多
春風吹送桃花色
休笑幽人擁鼻歌
訓読
上巳、土山氏の曲水宴にて山道甫と同に賦す
曲水の流觴 永和を憶ひ
閑庭に草を藉けば 興 偏へに多し
春風 吹き送る 桃花の色
笑ふを休めよ 幽人の鼻を擁して歌ふを
訳
上巳の節句、土山氏の主催する曲水の宴で、朱楽菅江とともに詩を詠む
曲水に盃を浮かべて、永和の昔の故事をしのび
閑静な庭で草の上に坐れば、ことさらに趣深い
春風は桃の花の美しさを吹き送って来る
世を避ける風流な我々が鼻を押さえてでも良い歌声にしようとするのを笑ってくれるな
注
上巳:上巳の節句。三月三日。もとは三月の第一の巳の日に流水のほとりで禊をしたことから上巳という。その後、巳の日にかかわらず三月三日に固定された。
土山氏:土山宗次郎(諱は孝之)(1740~1788)。田沼意次の腹心として力を振るい、南畝を経済的に支援した。田沼失脚後、500両もの公金横領が発覚し、逐電した末に捕縛されて斬首された。
山道甫:南畝とともに「狂歌三大家」に数えられる朱楽菅江(1740?~1799)のこと。本名は山崎景基(後に景貫と改名)、字(あざな)は道甫(当時、漢学の素養のある者はしばしば唐土にならって字を用いた)。名字の山崎を「山」一字に短縮し、これに字の「道甫」を合わせて唐風の名前としたもの。
曲水流觴:古来、上巳の節句に、文人たちが曲折した水流に酒杯を浮かべ、酒杯が自分の目の前を過ぎる前に詩を賦して酒杯を取り飲み干した風流の遊び。いわゆる曲水の宴。王羲之が永和9年の上巳に会稽山陰の蘭亭に文人を集めて行ったことが始まりともいう。
永和:東晋の元号。345~356年。永和9年に王羲之によって曲水の宴が初めて行われたとされる。
幽人:世を避けて静かに暮らしている人。 韋應物《秋夜寄丘二十二員外》「山空松子落 幽人應未眠」
擁鼻歌:鼻を押さえて歌う。歌の名手であった晋の謝安は、鼻の病気のせいで歌声が濁ったが、それがかえって評判が良く、他の者たちはそれを真似るために鼻を押さえて歌ったという。 《晋書・謝安傳》「安本能為洛下書生詠、有鼻疾、故其音濁、名流愛其詠而弗能及、或手掩鼻以斅之」
餘論
天明2年3月3日(1782年4月15日)の上巳の節句に、大田南畝が曲水の宴を詠んだ詩です。曲水の宴を主催するのは、老中田沼意次の腹心として我が世の春を謳歌し、南畝を経済的に支援していた土山宗次郎であり、一緒に参加していたのは、天明の狂歌壇をともに牽引していた朱楽菅江ですから、当時の南畝の交友関係を象徴するような漢詩です。
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