中岡慎太郎(なかおか しんたろう)
天保9年4月(1838年5月)~慶応3年11月(1867年12月)。幕末の志士。慎太郎は通称、諱は道正。号は遠山、迂山など。
土佐の大庄屋中岡小傳次の長男として生まれ、安政2年(1855年)頃から武市半平太の道場に入門して剣術と尊王攘夷思想を学んだ。文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤皇党に加わり、尊王攘夷の志士として活動を始めたが、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で中央政局で攘夷強硬派が失脚し、土佐藩内でも土佐勤王党への弾圧が強まったため、土佐を脱藩して長州藩へ亡命した。長州では、八月十八日の政変後に都落ちしていた三条実美の随臣となり、三条と各地の志士との連絡役をつとめて頭角をあらわした。また長州藩に亡命した脱藩志士たちを率い、長州藩とともに禁門の変や下関戦争を戦った。
次第に単なる尊王攘夷から雄藩連合による武力倒幕へと傾いていき、その実現のために薩長両藩の和解と同盟を目指して活動をはじめる。薩長のあいだを飛び回って両藩の志士たちと連絡をとりながら、薩摩の支援を受けていた亀山社中(のちの海援隊)の坂本龍馬とも協力し、紆余曲折を経て、慶応2年1月21日(1866年3月2日)、ついに薩長同盟の締結にこぎつける。
さらにはこの同盟に土佐をも加えるべく運動を進め、慶応3年5月(1867年6月)、薩摩の西郷隆盛・小松帯刀らと土佐の乾退助(板垣退助)・谷干城らとの間で、「薩土討幕の密約」を締結させた。同年6月(1867年7月)、高杉晋作の奇兵隊を参考に「陸援隊」を結成し、自らその隊長となった。
同年11月15日(1867年12月10日)、京都四条の近江屋で坂本龍馬と会談中、龍馬とともに何者か(現在では京都見廻組とする説が有力)に襲撃されて瀕死となり、2日後亡くなった。
⇒ 中岡慎太郎の漢詩
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