第123代天皇。在位は1912年(大正元年)7月30日~1926年(大正15年)12月25日。

1879年(明治12年)8月31日、明治天皇の第三皇子として誕生。母は権典侍柳原愛子。諱は嘉仁(よしひと)、称号は明宮(はるのみや)。出生時、2人の兄はいずれも薨去しており、8歳のとき皇嗣と定められた。

1900年(明治33年)5月10日、九条節子と成婚し、昭和天皇をはじめとして4人の男子をもうけた。側室は置かず、皇室における一夫一婦制を事実上確立した。

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇の崩御により践祚、同日、大正と改元し、1915年(大正4年)11月に京都御所で即位の礼をおこなった。

在位期間、国内では大正政変を契機としていわゆる「大正デモクラシー」の流れが強まり、1925年(大正14年)の普通選挙法(アジア初の男子普通選挙制)の成立へとつながった。国際的には第一次世界大戦に連合国側として参戦して戦勝国となり、戦後に成立した国際連盟の常任理事国となるなど、国際的地位は向上していった。

幼少時から健康をそこなうことが多かったが、1920年(大正9年)ころから執務が困難な病状となり、翌大正10年11月、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政に就任した。以後、大正天皇はもっぱら静養につとめることとなり、何度か病状が軽快することはあったものの、政務に復帰することはなかった。1926年(大正15年)12月25日、静養中の葉山御用邸で崩御。翌年2月大喪儀がとりおこなわれ、多摩陵に葬られた。

漢学者の三島中洲の指導を受けて漢詩の創作に力を注ぎ、歴代天皇の中で最多となる1367首の詩をのこしている。詩の内容も多彩で、非凡な作詩の力量をうかがうことができる。