文政13年8月(1830年9月)~明治11年(1878年)5月。幕末から明治にかけての武士、政治家。木戸孝允西郷隆盛とともに「維新三傑」と称せられる。

薩摩藩の下級武士、大久保利世の長男として生まれた。通称ははじめ正助(しょうすけ)であったが、のち、主君島津久光の命により一蔵(いちぞう。市蔵とも書く)と改めた。諱ははじめ利済、のち利通と改めた。号は甲東。西郷隆盛とは幼馴染であり、後に生涯の盟友、ライバルとなる。

第11代薩摩藩主島津斉彬に、西郷らとともに登用されて朝廷工作などにも関わることになる。斉彬が亡くなり、斉彬の異母弟久光が藩の実権を握ると久光に接近し、失脚して流罪となった西郷とは対照的に側近として重用された。やがて西郷が赦免されて藩政の場に復帰すると、ともに薩摩を代表する志士として活躍した。はじめ公武合体路線を指向したが、薩摩藩の提案による有力諸侯の朝議参加や四侯(島津久光山内容堂松平春嶽・伊達宗城)会議が結果的に失敗に終わり、一橋(徳川)慶喜との対立が深まるにともない、武力倒幕路線に転じた。

慶應3(1867)年10月14日、薩摩藩に倒幕の密勅が下ったが、翌15日に徳川慶喜が大政奉還をおこなったため、21日には朝廷は倒幕中止を指示し、武力倒幕は遠のくこととなった。大久保らは倒幕派の公卿岩倉具視らとともに巻き返しを図り、12月9日未明、王政復古のクーデターを実行し、摂政・関白・将軍を廃止し、天皇親政のもと、総裁・議定・参与の三職を置くことを決定し、大久保自身も参与に任じられた。翌慶應4年1月、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まり、薩長を中核とする新政府が正式に朝敵となった旧幕府勢力を武力によって完全に打倒した。

維新後は、参議・大蔵卿・内務卿などを歴任し、明治政府の中枢として、近代的な中央集権体制を確立するとともに、富国強兵・殖産興業をおしすすめた。明治六年政変では、征韓論を主張する西郷隆盛や板垣退助を失脚させ、明治7(1874)年2月の佐賀の乱では自ら兵を率いて鎮圧した。同年の台湾出兵に際しては、戦後処理のため全権弁理大臣として清国へ赴き、10月、和議をまとめた。明治10(1877)年、西南戦争が起こると、京都から政府軍を指揮して鎮圧した。

明治11(1878)年5月14日、東京の紀尾井坂で不平士族ら6名に暗殺された。

大久保利通の漢詩