天保8年4月(1837年5月)~大正8年(1919年)7月。幕末~明治の武士、政治家。土佐藩の上士乾(いぬい)正成の嫡男として生まれた。諱は正躬(まさみち)、のち正形(まさかた)。退助は通称。号は無形。乾家は武田信玄の重臣板垣信方の子孫にあたるが、信方の子・信憲が不行跡によって所領を召し上げられて殺されたため、その子・正信は遠江へ逃れ名字を「乾」と改め、その後、豊臣秀吉の小田原征伐の際に陣借りして奮戦、功績を認められて、遠江国掛川城主・山内一豊に召し抱えられ、関ヶ原の役後、土佐藩主となった山内一豊とともに土佐に入り、以後、乾家は代々、上士として土佐藩に仕えることとなったものである。このことから、のちに戊辰戦争の際に退助は名字を板垣に復すことになる(後述)。

父・正成の死後、家督を相続し、文久元年(1861年)10月には江戸留守居役兼軍備御用となって江戸へ移った。江戸での在任中は、前藩主山内容堂の御前で尊王攘夷を説くなど頭角をあらわし、薩摩の大久保利通や幕臣の勝海舟らとも交流を持った。文久3年(1863年)4月には土佐に帰藩するが、慶応元年(1865年)1月、洋式騎兵術修行を命じられて再び江戸へ赴き、幕臣からオランダ式騎兵術を学んだ。

慶応3年(1867年)5月、中岡慎太郎の仲介により、薩摩の西郷隆盛らと武力倒幕について協議し、「薩土密約」を締結、6月には土佐へ帰藩して藩の大監察に就き、軍制改革を指示した。

慶応4年1月、戊辰戦争が勃発すると、下士や郷士を中心とする迅衝隊を率いて土佐を進発、高松・松山両藩征討の勅命を受けて錦の御旗を授けられた。朝敵となることを恐れた高松・松山両藩を戦うことなく降伏させた退助はそのまま上洛し、東山道先鋒総督府の参謀に任じられ東山道の制圧に向かった。その際、「武田信玄の重臣板垣信方の末裔であることを示せば、甲斐の人心を掌握しやすくなる」との岩倉具視の助言に従い、名字を乾から板垣に復し「板垣退助」と名乗ることとなった。東山道を進軍した板垣は3月、旧幕府方に先んじて甲府城を接収、甲陽鎮撫隊(旧新撰組)を率いる近藤勇を甲州勝沼の戦いで破り、江戸へ敗走させた。5月には宇都宮城の戦いに参加、宇都宮で敗れた旧幕府軍が日光東照宮へ立てこもると、「徳川家の祖廟に隠れてこれを灰燼に帰せしめるようなことがあれば、末代までの笑い物になるだろう」と説得して日光から下山させ、日光を戦火から守った。6月には東北へ進軍、7月には三春藩を降伏させ、8月には会津へ進攻、9月に会津藩を降伏させて東北戦争を終結させ、土佐へ凱旋した。

明治2年(1869年)、木戸孝允、西郷隆盛らとともに新政府の参与に任じられ、明治4年(1871年)には参議となり、新政府の中枢を担った。しかし、征韓論への賛否をめぐる対立から起こった明治六年の政変で、西郷隆盛、後藤象二郎らとともに職を辞して下野した。下野ののちは民撰議院設立を求めて自由民権運動を推進、明治14(1881)年に「10年後に帝国議会を開設する」という国会開設の詔が出たのを受け、自由党を結成し、全国を遊説してまわった。明治15年4月、岐阜で遊説中に暴漢に襲われた際には有名な「板垣死すとも自由は死せず」の言葉をのこした。

明治23年(1890年)の帝国議会開設後は、自由党の党首として政党政治の確立を目指して活動し、藩閥政府と対峙していたが、明治28年(1895年)、行財政改革の実現と超然主義(内閣は議会や政党とは距離をおき、それらの意見に制約されずに行動すべきだとする考え方)の放棄を条件に第2次伊藤内閣への協力を宣言、翌明治29年4月に内務大臣として入閣した。しかし8月に伊藤が辞任して9月に第2次松方内閣が成立するとすぐに辞任し、野党に転じた。明治31年(1898年)6月、それまで対立していた進歩党の大隈重信と提携し、自由党・進歩党の合同による新党・憲政党を結成して第3次伊藤内閣を総辞職に追い込み、大隈を内閣総理大臣、板垣を内務大臣とする日本最初の政党内閣「隈板内閣」を成立させた。だが、憲政党は結成当初から激しい内部対立をかかえていたため、11月には党が分裂、隈板内閣も総辞職となった。明治33年(1900年)、伊藤博文が結成した立憲政友会に、旧自由党系の議員の大半が合流したため、板垣の政治生命は事実上終わってしまい、政界を引退した。大正8年(1919年)7月、死去。

板垣は、土佐藩の上士ながら、早くから尊皇攘夷・武力倒幕を主張していた(土佐藩上士の主流は公武合体論であった)し、中岡慎太郎と親交を結び、坂本龍馬の脱藩の罪の赦免のためにも尽力するなど、下士を敵視したり軽視したりすることがなく、上士の型にはまらない人物であったといわれる。