大塩平八郎(おおしお へいはちろう)

2016年9月14日水曜日

作者


寛政5年1月(1793年3月)~天保8年3月(1837年5月)。江戸時代後期の武士、儒学者。平八郎は通称、諱は正高、のち後素。号は中斎。室号は洗心洞。

大坂東町奉行所組与力をつとめ、奉行所内部の汚職事件を摘発するなど、不正に厳しい硬骨漢として評判を集めた。腐敗した奉行所内では大塩を敵視するものも多かったが、上司である大坂東町奉行の高井実徳の理解もあって辣腕をふるうことができた。

上司の高井実徳が東町奉行を辞職するとともに与力を辞し、陽明学者として学業に専念し、自宅の私塾で門人を指導した。

天保7(1836)~8(1837)年の大飢饉の際、大坂東町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)による江戸への米移出、豪商による米の買い占めにより米価が高騰すると、跡部に対し蔵米の供出や買い占め禁止などを献策したが受け入れられることはなかった。その後、蔵書を処分して得た私財を投じて窮民救済をおこなったものの、限界があり、武装蜂起による世直し以外に方法はないと決意するにいたった。

天保8年2月19日(1837年3月25日)に、門人や民衆とともに蜂起したが、一部の門人の密告により事前に奉行所の知るところとなっており、蜂起の当日に鎮圧された(大塩平八郎の乱)。しかし、この乱によって大坂の街は5分の1が破壊されるという大きな被害を出した。

乱ののち、1ヶ月あまり潜伏生活を続けたが、やがて潜伏先が発覚、捕吏に囲まれる中、火薬を用いて火をつけた小屋のなかで養子格之助とともに自害した。

幕府の直轄地である大坂で、元与力が民衆をひきいて反乱を起こすという前代未聞の事態は、幕府や各藩、さらに幕政に不満を持つ民衆に大きな衝撃を与え、幕府の威信は大きく失墜した。大塩の思想と行動は幕末の志士たちに影響を与えたため、大塩の乱は明治維新の魁と評されることも多い。