徳川光圀(とくがわ みつくに)
寛永5年6月(1628年7月)~元禄13年12月(1701年1月)。御三家のひとつ水戸藩の第2代藩主。号は梅里、諡は義公。
初代水戸藩主徳川頼房の三男として生まれた。徳川家康の孫にあたる。少年時代は素行が悪かったが、18歳のとき、『史記』「伯夷伝」を読んで感銘を受け、おこないを改めて学問に励んだといわれる。
寛文元年(1661年)7月、父頼房の死にともない、第2代水戸藩主となった。水戸の町の水道整備や寺社改革をおこなったほか、蝦夷地の探検調査をおこなわせた。また、尊皇論に基づいて紀伝体で記された歴史書『大日本史』の編纂など文化事業に非常に力を入れた。寛文5年(1665年)6月には、清に滅ぼされた明から亡命してきた朱舜水を招聘し、以後、彼を深く敬愛して思想的影響を受けた。
元禄3年(1690年)10月、養子(兄頼重の実子)綱條に家督を譲って隠居したが、その後も、領内で考古学的な発掘調査をおこなったり、摂津国湊川に楠木正成の墓を建立(現在の湊川神社)したりするなど様々な事業をおこなった。
元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため亡くなった。
光圀の積極的な文化事業は、朱子学を中心に国学や神道を融合させた「水戸学」を生み出し、幕末の尊王攘夷論につながっていくこととなる。光圀自身も高い教養を備えた文化人であり、千首あまりの和歌や約千五百首の漢詩を残している。
権中納言に任じられていたことから、中納言の唐名である「黄門」を用いて「水戸黄門」と呼ばれた。生前からすでに名君との評判を得ていたが、死後、光圀が全国をお忍びで旅して世直しするという物語が講談などを通じて世間に広まることになる。ただ、光圀が全国を旅したという事実はない。
⇒ 徳川光圀の漢詩
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