木戸孝允の漢詩 丙寅孟春潛泝淀水過天王山下有感(丙寅孟春、潛かに淀水を泝(さかのぼ)り、天王山下を過ぎて感有り)

作者

原文

丙寅孟春潛泝淀水過天王山下有感

勤王唱義已多歳
欲向何人説杞憂
此夜孤篷無限恨
滿川風雨不勝秋

訓読

丙寅孟春、潛かに淀水を泝(さかのぼ)り、天王山下を過ぎて感有り
勤王 義を唱ふること已に多歳
何人に向かってか杞憂を説かんと欲す
此の夜 孤篷 無限の恨み
満川の風雨 秋(とき)に勝へず

丙寅(慶應2年・1866年)の初春、ひそかに淀川をさかのぼり、天王山のふもとを通過して感じることがあり作った

勤王の大義を唱えて奔走しつづけてすでに長い年月がすぎた
この胸のうちの憂いをいったい誰に向かって話そうというのか、誰に話したところで無用の心配と片付けられるだけ、理解してくれる人はいないだろう
今夜、一隻のさみしい舟で、かつての同志たちが死を覚悟して出陣していった天王山のふもとを通り過ぎていくと、恨めしい気持ちが限りなく広がっていく
おりしも淀川の川面一面に風雨が降り注ぐ中、私は今このときの情景にとてもたえられない

孟春:初春、正月。
淀水:淀川。琵琶湖から流れ出る瀬田川が京都に入って宇治川となり、大山崎町付近で桂川・木津川と合流して淀川となり、大阪平野を流れて大阪湾に注ぐ。
天王山:京都府大山崎町にある山。いにしえより戦略上の要地として知られ、羽柴秀吉が明智光秀を破った山崎の合戦の際には、秀吉がこの山を制することで勝利を手にしたとされ、「天下分け目の天王山」という言葉が人口に膾炙した。蛤御門の変の際には、長州藩はまず天王山をおさえ、ここを拠点として都へ進撃していったが、戦いに敗れ、真木保臣らは天王山まで引き返して自害した。

杞憂:無用の心配。とりこし苦労。昔、杞の国に「天が落ちてきたらどうしよう、地が崩れたらどうしよう」と心配する人がいたという故事による。
孤篷:孤舟に同じ。「篷」は竹や茅を編んで作った舟の覆いだが、転じて舟そのものを指す。
:たえる、こらえる。「勝」は「たえる」の意のときは平声、「かつ」「まさる」の意のときは仄声。ここは平声でなければならないので「たえる」の意である。
:ここは季節の「あき」ではなく、「とき」の意であろう。

餘論

慶應2年(1866年)正月、薩長同盟締結のため京都伏見の薩摩藩邸を訪ねるべく、大阪から淀川をさかのぼり、天王山のふもとを通過した際の詩です。この前日、大阪に到着した際の詩が、「丙寅早春到浪華」です。このときの京都へ向かうまでの経緯は、田中光顕の「維新夜語」に引く木戸自身の記録によれば以下のとおりです。

「高杉晋作、井上聞多等亦余をして上京せしむる事を論じ、終に公命下るに至る。依て余恥を忍び意を決し、諸隊中の品川弥二郎、三好軍太郎、早川渉、土人田中謙助(光顕)、薩人黒田了介(清隆)と同船、浪華に至る。于時正月四日也。其翌同船淀水を泝り、天王山下を過ぎ慨然流涕せざるものなし。五更伏見に達す。西郷吉之助(隆盛)、村田新八等を迎えて共に京都に入り薩摩邸に至る」

この詩にいう「杞憂」というのが具体的にどんな心配事なのかはわかりません。ただ、蛤御門の変で死んでいった仲間のことを思えば、仇敵薩摩と手を結ぶことについて最後の最後まで迷いを消し去ることはできなかったであろうと想像できます。