文政11年9月(1828年10月)~明治23年(1890年)6月。幕末から明治にかけての大名・政治家。第16代越前福井藩主。諱は慶永(よしなが)。号は春嶽、礫川、鴎渚など。薩摩の島津斉彬・土佐の山内容堂・伊予宇和島の伊達宗城とともに四賢侯と称せられた。
御三卿のひとつ田安徳川家第3代当主徳川斉匡の八男として生まれ、天保9年(1838年)7月、第15代越前福井藩主松平斉善の急逝にともない、末期養子(実際には没後養子だが、死亡日をいつわって存命中の養子縁組を装った。このような措置は家の断絶を防ぐためにしばしばおこなわれた)として迎えられて家督を相続し、11月、11歳にして福井藩主となった。

藩主就任時、福井藩は年収約4万両に対し借財は約90万両と破綻状態にあったため、翌天保10年(1839年)2月、全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減などの財政再建策を打ち出した。さらに天保11年(1840年)1月には守旧派の家老を罷免して中根雪江や由利公正、橋本左内ら改革派を登用し、財政再建のほか、洋書習学所の設置による洋学の導入や洋式大砲の製造などの軍制改革をおこなった。

嘉永6年(1853年)、米国のペリー艦隊来航に際しては、水戸藩主徳川斉昭らとともに攘夷と海防強化を主張したが、老中の阿部正弘らとの交流を通じて、安政4(1857)年ごろには開国派に転じた。第13代将軍徳川家定の継嗣問題では、紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す大老井伊直弼らに反対して一橋徳川家当主の徳川慶喜を推したが敗れた。幕府が勅許なしに日米修好通商条約を締結すると、徳川斉昭らとともに登城して大老の井伊に抗議したが、斉昭とともに不時登城(登城が認められていない日に登城すること)の罪で処罰され、謹慎のうえ隠居させられた。

桜田門外の変により井伊直弼が暗殺されると幕政に復帰した。文久2年(1862年)4月、薩摩の島津久光が兵をひきいて上洛、朝廷をうごかして幕政改革を要求した結果、春嶽は「政事総裁職」に就任し、将軍後見職となった一橋慶喜とともに公武合体路線に沿った諸政策を推進した。このころ春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問としてそばに置き、藩政や幕政にその意見を求めた。

文久3年(1863年)には上洛したが、朝廷内で有力な攘夷派との妥協に傾く一橋慶喜との関係が悪化して3月には政事総裁職を辞して福井へ帰った。5月には、勝海舟の意向を受けて福井に来た坂本龍馬に面会し、海軍操練所設立の資金として五千両(一説には千両)を拠出した。八月十八日の政変により朝廷内の攘夷強硬派が排除され、あらたに参預会議が設けられると、春嶽も参預に任じられて会議に参加することとなったが、一橋慶喜と他の諸侯との対立などで参預会議は崩壊した。慶応3年(1867年)5月には島津久光・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議をひらき、連携して将軍徳川慶喜と協議することで一致したが、その後、慶喜を交えた会談では慶喜が議論を主導して四侯の主張はしりぞけられた。その結果、薩摩の島津久光は武力倒幕を決意し、一方、土佐の山内容堂は薩長による武力倒幕を避けるため慶喜に大政奉還を建白、春嶽もこれに賛同し、慶応3年10月(1867年11月)、徳川慶喜は大政奉還を上奏した。12月9日、岩倉具視らが中心となって王政復古のクーデターを起こし、徳川慶喜と摂関家を排除した新体制が樹立され、春嶽は「議定」に任じられる。薩長中心の武力倒幕には賛成しなかったが、明治新政府では内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任した。明治3年(1870年)に公職から引退し、明治23年(1890年)、肺水腫で亡くなった。