木戸孝允の漢詩(4) 丙寅早春到浪華(丙寅早春 浪華に到る)
作者
原文
丙寅早春到浪華
天道未知是邪非
陰雲四塞日光微
我君邸閣看難見
春雨和淚滿破衣
訓読
丙寅早春 浪華に到る
天道 未だ知らず 是か非か
陰雲 四塞して日光 微かなり
我が君の邸閣 看れども見難し
春雨 涙に和して破衣に満つ
訳
丙寅の年(慶應2年・1866年)早春、大坂に到着
天道が正しいか間違っているか、それはまだわからない
暗い雲が四方に垂れこめて視界をふさぎ、日の光はかすかにしか見えない
我が殿の大坂屋敷を眺めようとするが、幕府に没収されて見ることはできない
折から降り注ぐ春雨がこぼれ落ちる涙と一緒になってボロボロの服を濡らしている
注
天道:天の道理。天が万物を支配している法則。
是邪非:正しいのか、間違っているのか。「史記」の作者司馬遷は「伯夷伝」の中で「天道是耶非耶(天道是か非か)」と記し、正しい者の味方であるはずの天に対して疑問を発した。
我君邸閣:我が殿のお屋敷。長州藩(毛利家)の大坂屋敷のこと。各藩の江戸藩邸や大阪屋敷は、正確には藩のものではなく、藩主のものであるから、「我が君の邸閣」と言っている。蛤御門の変により朝敵となった長州藩の大坂屋敷は幕府によって没収されていた。
餘論
蛤御門の変ののち、桂小五郎は但馬の出石で潜伏生活を送っていましたが、高杉晋作が功山寺挙兵で藩内クーデターを成功させると、実権を握った高杉らによって藩に迎え入れられます。長州へ戻った桂は、藩主毛利敬親から参政に任じられ、内政の改革、軍備の充実、薩長同盟締結に向けた交渉に奔走します。そして、ついに京都伏見の薩摩藩邸に西郷隆盛を訪ねて会談すべく上方へ向かい、慶應2年正月4日にまず大阪に到着しました。そのときに詠んだのがこの詩です。翌5日には淀川をさかのぼって夜、天王山のふもとを過ぎ、明け方に伏見に入りますが、そのときに詠んだのが「丙寅孟春潛泝淀水過天王山下有感」です。
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