島津久光の漢詩 兵庫沖偶成

作者

原文

兵庫沖偶成

從出家郷已幾旬
轎舟渡得幾關津
此行何事人知否
欲拂扶桑國裏塵

訓読

兵庫沖偶成

家郷を出でてより已に幾旬
轎舟 渡り得たり 幾関津
此の行 何事か 人 知るや否や
払はんと欲す 扶桑国裏の塵

兵庫沖でたまたまできた詩

国元を出てからすでに何十日すぎたことか
かごや舟でいくつの関所と渡し場をこえてきたことか
さて、今回のこの旅がいったい何の旅なのか、世の人々は知っているだろうか
実は日本の国をけがしている塵を払ってきれいにしたいと思っているのだ

兵庫:兵庫津。現在の神戸。平安末期、平清盛が整備した「大輪田泊」(現在の神戸市兵庫区)が鎌倉時代以降、「兵庫津」と呼ばれ、日明貿易や国内船舶輸送の拠点として繁栄した。幕末の安政五カ国条約で開港場のひとつに指定され、1868年1月1日(慶応3年12月7日)、兵庫津よりやや東にあたる辺りが「兵庫港」として開港された。「神戸」はもともと開港場一体の村の名前であったが、開港後、次第に港を指す名称として「神戸」が浸透するようになり、1892年(明治25年)に勅令によって正式に「神戸港」の名が定められた。
:かご。
関津:関所と渡し場。
扶桑:日本の別名。
:うち。なか。

餘論

島津久光は、何度か上洛の途中で兵庫津に立ち寄っており、この詩がそのうちのどの寄港の際に作られたものかはわかりませんが、詩にこめられた意気込みから推測すると、公武合体推進のため初めて上洛した文久2年4月(1862年5月)あるいは翌文久3年に八月十八日の政変で朝廷から長州派を排除した後に上洛した際のものではないかと思われます。