文政10年10月(1827年11月)~明治5年6月(1872年7月)。幕末の土佐藩主、政治家。諱は豊信。容堂は隠居後の号。藩政改革によって土佐藩を雄藩のひとつに押し上げ、薩摩の島津斉彬・越前福井の松平春嶽・伊予宇和島の伊達宗城とともに幕末の四賢侯と称せられる。一方で、時勢をたくみに読む日和見的な政治行動から「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と揶揄された。

土佐藩主山内家の分家の出身だったが、嘉永元年(1848年)、第14代藩主山内豊惇が急死し、豊惇の弟(のちの第16代藩主山内豊範)がまだ幼かったことから、分家の豊信(容堂)が選ばれて豊惇の末期養子となって第15代藩主となった。藩主となってからは、門閥勢力による藩政支配を嫌って、改革派の吉田東洋を抜擢して「仕置役(参政)」に任じ、西洋式軍備の採用、海防強化、藩財政改革、身分制度改革などを断行した。改革によって土佐藩は雄藩の一角として幕末の政局に影響力を持つようになり、豊信(容堂)も積極的に幕政への介入を志向するようになった。13代将軍徳川家定の後継問題では、水戸の徳川斉昭や薩摩の島津斉彬、福井の松平春嶽らとともに一橋慶喜を推したが、紀伊藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す大老井伊直弼らに敗れ、安政6(1859)年2月、豊範に藩主の座を譲って隠居し、容堂と号した。10月には大老井伊直弼の意向により幕府から謹慎を命じられた。

謹慎中、桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されるなど、全国で尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、土佐藩内でも武市半平太率いる土佐勤王党が吉田東洋を暗殺して守旧派の門閥勢力と手を結び藩政を掌握した。容堂は当初、土佐勤王党の活動を黙認していたが、文久3(1863)年の八月十八日の政変で朝廷から攘夷強硬派が排除されると、土佐勤王党の徹底弾圧・粛清に転じ、武市半平太にも切腹を命じた。

その後、朝廷から松平春嶽らとともに参預に任じられ参預会議に参加、さらに慶応3年(1867年)5月には薩摩の島津久光・越前福井の松平春嶽・伊予宇和島の伊達宗城と四侯会議を開催したが、いずれも成果なく短期間で崩壊した。その間に薩長同盟の締結、第2次長州征伐の失敗などにより、倒幕の気運が高まり、土佐藩も乾退助が薩摩の西郷隆盛との間に薩土密約を締結するなど討幕路線へ傾くようになった。武力討幕を望まない容堂は危機感を抱き、幕府側の自発的な政権返上(大政奉還)により武力討幕を回避するという後藤象二郎の提案を受け入れ、将軍徳川慶喜に大政奉還を建白、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は大政奉還を奏上し、翌日、明治天皇がこれを勅許した。

大政奉還後も、朝廷内の実権は摂政二条斉敬ら親徳川派が掌握しており、その後の新政権設立も徳川家を中心に進められるものとみられていたが、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古のクーデターによって討幕派が朝廷内の主導権を握り、幕府・摂政・関白の廃止が宣言された。同日夕方から明治天皇臨席のもと小御所会議が開かれ、泥酔状態で遅刻して参加した容堂は、会議に徳川慶喜の出席が許されていないこと、慶喜に対して辞官納地(官位と領地の返上)を求める決定がなされたことを激しく非難した上で、「今日の事は二三の公卿が幼冲の天子を擁して陰謀を企てたものであろう」と発言してしまった。岩倉具視がこの失言を聞き逃さず、「今日の挙はことごとく宸断(帝のご聖断)によるものである。帝に対して幼冲とはいったい何事であるか」と詰め寄ったところ、容堂は全く反駁できず、以後沈黙してしまい、その後の会議は岩倉ら討幕強行派のペースで進んだ。

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いが起こると、在洛の土佐藩兵に対し戦に参加しないように命令を下したが、藩兵は命令にさからって新政府軍に参加、さらに土佐から乾退助が迅衝隊を率いて上洛し新政府軍の参謀として東山道の制圧に向かうにいたって、もはや容堂も土佐藩が薩長と歩調をあわせて旧幕府追討に加わることを認めるほかはなくなった。

維新政府では、議定や内国事務総裁などに就任したが、いずれも短期間で辞職し、明治2年(1869年)7月、公職から退いた。隠退後は酒と女と詩に耽溺する生活を送り、連日酒楼で豪遊して家産を傾かせるほどであったが、明治5年6月(1872年7月)、脳溢血のため亡くなった。維新政府の実権を握った元志士たちとはあまり交流しなかったが、木戸孝允とは仲が良く、隠退後も酒席をともにして国の将来について語り合ったという。また、ともに幕末の四賢侯と称される越前福井藩の松平春嶽とは幕末以来の交流があり、互いに詩をおくり合っている。