天保7年8月(1836年10月)~明治41年(1908年)10月。幕末から明治にかけての武士、政治家。通称は釜次郎、号は梁川。幕臣榎本武規の次男として江戸に生まれ、昌平坂学問所で漢学を学んだあと、長崎海軍伝習所で洋学を学んだ。文久3年(1863年)4月から慶応2年(1866年)10月までオランダに留学し航海術や砲術、蒸気機関学、化学、国際法などを学びながら、観戦武官としてシュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマークとプロイセン・オーストリア連合軍との戦争)を見学したり、軍艦購入についてフランス海軍と交渉したりした。帰国後は海軍頭となって幕府艦隊の指揮を任された。

戊辰戦争勃発後の慶応4年1月、旧幕府方の海軍副総裁に任じられ、新政府軍に対する徹底抗戦を主張したが、恭順を決めた徳川慶喜から取り上げられることはなく、陸軍総裁の勝海舟からも反対された。8月、旧幕府艦隊をひきいて抗戦派の旧幕臣とともに江戸を脱出して仙台に入ったが、すでに奥羽越列藩同盟は崩壊しており仙台藩も新政府への降伏を決めてしまったため、降伏を拒否する大鳥圭介や土方歳三ら約三千名を収容した上で仙台を出港して蝦夷地(北海道)へ向かった。10月、蝦夷地に着くと、新政府の政庁が置かれていた箱館を占領、さらに新政府方の松前藩を降伏させ、蝦夷地を制圧した。12月、いわゆる「箱館政権(蝦夷共和国)」を樹立し、士官以上の選挙(入れ札)によって榎本が総裁に就任した。明治2(1869)年4月、雪解けを待って新政府軍が蝦夷地へ上陸すると、各地で旧幕府軍を撃破して箱館へ迫り、5月11日、箱館総攻撃が始まり、5月18日、ついに榎本ら幹部が出頭して新政府軍に降伏した。この戦争と降伏交渉を通じて、新政府軍参謀の黒田清隆と知り合い、互いを認め合うようになって、以後、生涯の盟友となった。

降伏後は東京へ送られ牢獄に収監された。黒田清隆らが中心となって助命嘆願がおこなわれる一方で木戸孝允らは厳罰を主張し、処置が決しないまま2年半、獄中で過ごした。明治5(1872)年1月、特赦により出獄すると、3月には黒田が次官をつとめる開拓使に出仕し、北海道の資源調査などをおこなった。

明治7(1874)年1月、駐露特命全権公使に任命され、ロシアとの国境画定交渉をおこなって、翌明治8年5月、樺太・千島交換条約を締結した。その後も、駐清特命全権公使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任するなど、有能な実務派として活躍し、明治天皇の信頼も厚かったが、一方で旧幕臣ながら明治政府に仕えて出世したことを変節と非難する声も根強く、特に福澤諭吉は「痩我慢の説」で厳しく批判した。

明治20(1887)年、子爵を受爵。明治33(1900)年、盟友黒田清隆が亡くなると葬儀委
員長をつとめた。明治41(1908)年10月死去。海軍葬により送られた。