大久保利通の漢詩 訪石門戰場偶成(石門の戦場を訪ねての偶成)

作者

原文

訪石門戰場偶成

王師一到忽摧兇
戰克三千兵氣雄
請看皇威及異域
石門頭上旭旗風

訓読

石門の戦場を訪ねての偶成

王師 一たび到れば忽ち兇を摧(くじ)き
戦 克って三千の兵 気 雄なり
請ふ看よ 皇威の異域に及ぶを
石門頭上 旭旗の風

石門の戦場を訪ねてたまたま出来た詩

わが帝国の軍がひとたび到着するとたちまち悪人どもを倒し
戦いに勝って三千の兵は意気さかんである
見たまえ、みかどの威光が異国の地まで及んでいるのを
石門の地の空では日の丸が風にはためいている

石門:台湾出兵(1874年5~6月)の際の戦場の一つ。日本軍の上陸地琅嶠湾から、出兵のきっかけとなった宮古島民殺害の起きた牡丹社(先住民集落の名)へ向かう途上にある場所。現在の屏東県車城郷。1874年5月22日、先住民70名ほどと戦闘となり、牡丹社の首長父子を含む十数名を殺害して勝利した。

王師:帝王の軍隊。
:わる者、悪人。
三千兵:台湾出兵に従軍した総員は3568名、戦死者は11名、マラリア等による病死者は561名という。

餘論

台湾出兵は近代日本にとって最初の海外派兵でした。明治4(1871)年12月、台湾南部の八瑶湾に漂着した宮古島民が現地の先住民に殺害されるという事件が起こり、日本は台湾を領有する清国に対して抗議しましたが、清国は「生蕃(台湾先住民のうち、山岳部の狩猟民で清国の統治に服していない諸部族)は化外(帝王の教化・支配が及ばないこと)の民であって清国に責任はない」「そもそも宮古島を含む琉球は清の属国であって日本領ではないから、島民の殺害について日本が抗議する権限もない」として日本の抗議を受け入れませんでした。日本側では政府内で意見の相違があったものの最終的に出兵となり、明治7(1874)年5月、台湾へ上陸。まず宮古島民殺害の起こった牡丹社の首長と接触して殺害犯の捕縛・引き渡しを要求しましたが拒否されたため、武力で制圧すべく奥地へと進行を開始し、5月22日に石門の戦いに勝利、6月には牡丹社本拠を攻撃して占領するとともに周辺部族とは友好関係を結んで、一帯をほぼ制圧します。戦闘には勝利した日本軍ですが、7月以降、マラリアが流行し、8月には死者が続出する事態となり、早期の収拾が求められることとなります。一方、清国は日本の出兵後、台湾へ軍艦を派遣して日本軍に抗議するとともに撤兵を要求しますが、日本は応じませんでした。清の同治帝が「日本が撤兵に応じなければ討伐せよ」との勅命を出し、台湾西方の澎湖島へ兵を進めるにいたって、日清両国は一触即発となりますが、両国とも本格的な戦争の準備はできておらず、開戦回避と事態収拾のための交渉が始まります。このとき全権大使として北京へ向かったのが大久保利通であり、その折に作られたのが「下通州偶成」です。