島津久光(しまづ ひさみつ)
文化14年10月(1817年12月)~明治20年(1887年)12月。幕末~明治の武士、政治家。諱ははじめ忠教(ただゆき)、のち久光に改名。号は徳洋、大簡、双松、玩古道人、無志翁など。幕末薩摩藩の最高実力者として公武合体からやがて倒幕へ向かう政局に大きな影響を及ぼした。
第10代薩摩藩主島津斉興の五男として生まれる。母は側室のお由羅の方。斉興の後継をめぐって、正室の子である兄・斉彬との間に派閥抗争がおこり、「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動に発展して幕府の介入を招いた結果、嘉永4年2月(1851年3月)、藩主斉興は隠居し、斉彬が藩主の地位に就いた。派閥同士が争ったものの、兄・斉彬との個人的な関係は良好であったため、斉彬藩主時代も冷遇されるようなことはなかったとされる。
安政5年7月(1858年8月)、藩主の兄・斉彬が亡くなると、その遺言により久光の子・忠徳(のち茂久、さらに忠義に改名)が藩主となり、父・斉興が後見をつとめたが、安政6年9月に斉興が亡くなると、藩主の実父である久光が「国父」として遇されることとなり、薩摩藩政の実権を掌握した。
薩摩藩の最高実力者となったのちは、小松帯刀や大久保利通を重用して中央の政局への関与を強めていった。西郷隆盛とは反りが合わず、一時は流罪に処したが、のち大久保らの嘆願により赦免し、大久保らとともに用いた。当初は、朝廷・幕府・雄藩の連携による公武合体路線を指向し、文久2(1862)年4月には藩兵を率いて初の上洛を果たし、さらに勅使とともに江戸へおもむいて幕府と交渉、一橋慶喜の将軍後見職および松平春嶽の政事総裁職就任を実現させる。このあと江戸から京都へ戻る途中の生麦村で、一行の行列に乱入したとの理由により藩士が英国人3名を殺傷する「生麦事件」が起こり、この事件をきっかけに翌文久3年7月の薩英戦争が勃発するが、この戦争とその後の講和を通じて薩摩藩と英国は互いを高く評価するようになり、両者の友好関係はやがて薩長による倒幕を支える力となる。
文久3年の八月十八日の政変により、急進的な尊王攘夷派の長州藩の勢力が朝廷内から排除されたのち、三度目となる上洛を果たし、一橋慶喜や松平春嶽とともに「参預」に任じられて朝議に参加することとなり、公武合体による政治体制がいちおうの実現をみた。しかし、参預会議では一橋慶喜と対立したうえ、慶喜に主導権を握られて久光の主張は通らず、最終的に参預会議は機能不全となって解体され、久光は薩摩へ帰国した。
公武合体の頓挫により、薩摩藩指導部は次第に倒幕路線へ傾くこととなり、慶応2年(1866年)1月には薩長同盟が締結されるが、久光はまだ幕府との妥協への期待を捨て切れず、慶応3年(1867年)4月、4回目の上洛をはたして四侯(島津久光・山内容堂・松平春嶽・伊達宗城)会議を開き、四侯連携により将軍徳川慶喜と協議することで一致したが、慶喜との会談では四侯の主張はしりぞけられ、これにより久光もついに幕府との妥協を断念して倒幕を決断する。こうして薩長を中心とする武力倒幕への流れがかたまった。
維新後も、版籍奉還により薩摩藩主から鹿児島藩知藩事となった実子・忠義の後見人としてひきつづき鹿児島藩の実権を握っていたが、明治4年7月の廃藩置県により島津家は旧藩領の統治権を失い、久光は激怒したと伝わる。久光は新政府の諸改革に対して終始反対しつづけ、亡くなるまで髷を切らず、帯刀をやめなかった。明治10年(1877年)2月、西郷隆盛らが蜂起して西南戦争が勃発すると、政府は久光の動向を警戒したが、久光は「中立」を表明した。
明治17(1884)年、公爵を受爵。明治20(1887)年12月死去。
⇒ 島津久光の漢詩
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