天保15年7月(1844年8月)~明治30年(1897年)8月。幕末~明治の武士、外交官、政治家。通称は小次郎、のち陽之助、号は福堂。紀州藩士伊達宗広の六男として生まれた。父宗広(別名千広)は藩の勘定奉行や寺社奉行を歴任し藩財政の再建に功績のあった重臣だったが、嘉永5(1852)年、藩内抗争に敗れて失脚し幽閉された。このため以後の一家は困窮をきわめた。

父宗広は国学者・歴史家としても有名で、藩内の尊王論を主導する存在でもあったため、陸奥も影響を受けて尊王攘夷思想に傾倒するようになった。安政5年(1858年)、江戸へ出て、安井息軒や水本成美に師事して漢学を学ぶとともに、長州藩の桂小五郎伊藤博文、土佐藩の坂本龍馬らと交流した。文久3年(1863年)には、坂本龍馬に誘われて、勝海舟が創設した神戸海軍操練所に入るが、このときに、龍馬の勧めで紀州伊達家の名前を捨てて「陸奥陽之助」を名乗るようになったといわれる。海軍操練所が閉鎖されたあとも、陸奥は龍馬に従って長崎へ行き、亀山社中(後の海援隊)の創設に参加した。亀山社中では商務担当として活躍し、龍馬から「二本差さなくても(武士をやめても)食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と評された。

維新後は「陸奥宗光」と名乗り、伊藤博文や井上馨、五代友厚らとともに外国事務局御用掛に任じられて対外交渉の実務を担い、旧幕府が発注していた甲鉄艦ストーンウォール号の新政府への引き渡しを米国に認めさせるなどの功績をあげた。その後、兵庫県知事、神奈川県令などをつとめたが、薩長中心の藩閥政府に反発して官を辞して和歌山へ帰った。明治8年(1875年)4月、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・板垣退助らの大阪会議での合意に基づき元老院が設置されると、その議官となり、ついで11月には正副議長を補佐する幹事に就任し、立憲政体の確立を目指す議論に取り組んだ。

西南戦争の際、西郷らに呼応して政府の転覆をはかり土佐で挙兵を企てた林有造らと通じていたとして、明治11年(1878年)6月に元老院追放、9月には禁錮5年の刑で投獄された。明治16年(1883年)1月、特赦により出獄、伊藤博文の勧めによって欧州へ留学し、西洋近代の政治・社会制度を学んだ。明治19年に帰国すると外務省へ入り、明治21年には駐米公使兼駐メキシコ公使として、日本初の平等条約となる日墨修好通商条約をメキシコ合衆国との間に締結した。明治23年(1890年)、第1次山県内閣の農商務大臣として入閣。つづく第1次松方内閣でも留任したが、薩摩閥との対立から、明治25年(1892年)3月辞任。

明治25年8月、第2次伊藤内閣に外務大臣として入閣。明治27年(1894年)には、英国との間に日英通商航海条約を締結し、幕末以来の悲願であった治外法権の撤廃に初めて成功した。その後、米・独・伊・仏などとの間でも治外法権を撤廃した。また英国との協調を基盤に対清強行路線をすすめる「陸奥外交」を展開、明治27年5月、朝鮮で甲午農民戦争がおこり清国が朝鮮へ出兵すると、これに対抗して日本も出兵することを主張してこれを実現させ、日清開戦への道を開いた。開戦後、日本の優位が確定すると、首相の伊藤博文とともに全権として清国の全権李鴻章と交渉をおこない、明治28年(1895年)4月、下関条約を締結して、近代日本最初の本格的な対外戦争を勝利で終わらせた。ところが、条約締結直後、その内容に反対するロシア・ドイツ・フランスから「三国干渉」を受け、清国から割譲された遼東半島を返還するよう求められた。陸奥は当初、英米両国を動かして三国を牽制し、要求を撤回させようと考えたが、英米は局外中立を宣言したため望みは断たれ、同年5月、日本は三国の要求を受け入れて遼東半島を清国へ返還した。政府のこの決定に世論は激しく反発し、「軟弱外交」と政府を批判した。これに対し陸奥は、日清戦争・三国干渉に至る日本外交の詳細な経緯を記録した自著『蹇々録』のなかで三国干渉受諾について「他策なかりしを信ぜむと欲す」と心情を綴った。昭和4年の『蹇々録』公開後、この言葉は国家の命運を背負った外交官の自負を示すものとして広く人口に膾炙した。

日清戦争時、すでに肺結核をわずらっていたが、明治29年(1896年)5月、外務大臣を辞して療養生活に入り、明治30年(1897年)8月、自宅で亡くなった。