中岡慎太郎の漢詩 丁卯春隨五公卿在筑紫公卿閉門更厚加謹慎予等亦倣公之為日夜感慨悲哀之情不能止偶賦一詩

作者

原文

丁卯春隨五公卿在筑紫公卿閉門更厚加謹慎予等亦倣公之為日夜感慨悲哀之情不能止偶賦一詩

誤來書劔百年身
幾逢他郷暦日新
風雨喚醒京國夢
滿窓山色未成春

訓読

丁卯春、五公卿に随ひて筑紫に在り、公卿門を閉して更に厚く謹慎を加ふ、予等も亦た公の為すに倣ひ日夜感慨悲哀の情止む能はず、偶(たまたま)一詩を賦す

誤り来たり 書剣 百年の身
幾たびか他郷に暦日の新たなるに逢ふ
風雨 喚び醒ます 京国の夢
満窓の山色 未だ春を成さず

丁卯の年(慶応3年)の春、五人の公卿の方々にしたがって筑紫(福岡)に滞在。公卿はかたく門を閉ざしてさらに謹慎の態度を強めておられる。お仕えする我々もまた、公卿にならって身をつつしみ、日夜、感慨と悲哀をおさえることができない。そんなとき、たまたま一首の詩ができた

これまでの人生、誤って学問と武芸にばかり打ちこんで長い期間をすごしてしまい
いったい何度、故郷を離れたよその地で年があらたまるのを迎えたことか
風雨がうちつける音のせいで、都の夢を見ていた眠りも覚め
窓いっぱいにひろがる山の景色はまだ春になっていない

五公卿:文久3年(1863年)、八月十八日の政変で失脚した7人の攘夷派の公家たちは、長州藩兵にともなわれた長州へ落ちのびた。これを「七卿の都落ち」「七卿落ち」という(実際には7人のうち公卿に列していたのは三条実美と三条西季知の2人だけであったが、7人をまとめて七卿と称する)。七卿のうち、錦小路頼徳は元治元年(1864年)に病没、澤宣嘉は文久3年(1863年)10月、攘夷派が挙兵した生野の変で総帥として担ぎ出されたが大敗して伊予に逃れた(のち、再度長州へ戻る)。この2人を除く5人は、第一次長州征伐の際、和議の条件として長州藩から退去させられることとなり、筑前の太宰府に移された。
書劔:書物と剣。学問と武芸。
暦日:月日、年月。暦で定められた月日。
京國:みやこ。

餘論

詩題は中岡の日記で詩の前に書かれていた文章をそのまま用いました。五卿の長州からの退去に際し、中岡の無力感と焦りが伝わってくる詩です。