伊藤博文(いとう ひろぶみ)
天保12(1841)年~明治42(1909)年。幕末の長州藩士、明治時代の政治家。通称ははじめ利助、俊介、俊輔、さらに春輔(しゅんすけ)と改めた(伊藤博文の通称の変遷について詳しくは記事「氏(うじ)・姓(かばね)・名字(みょうじ)・実名(じつみょう)・仮名(けみょう)」を参照)。号は春輔と音が通じることから春畝(シュンポ)。
はじめ農家の長男として生まれたが、父が養子に入った水井武兵衛が足軽伊藤家の養子となったため、父とともに博文も足軽の身分となった。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、久坂玄瑞らとともに尊王攘夷運動にかかわった。文久3(1863)年には長州五傑(長州ファイブ)の一人として英国へ留学、英語とともに機械文明と近代的な社会制度を学んだ。翌元治元年に帰国後は下関戦争の勃発回避および開戦後の和平交渉に奔走した。同年12月、高杉晋作の功山寺挙兵に際しては力士隊を率いて真っ先にかけつけ、この藩内クーデター成功に貢献した。
維新後は英語力と対外交渉の経験を買われ、外国事務局判事、初代兵庫県知事、初代工部卿など要職を歴任した。木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通の維新三傑があいついで亡くなったあとは、明治政府の第一人者として活躍し、内閣制度の開設や大日本帝国憲法の起草に中心的な役割を果たした。明治18年(1885年)12月には初代内閣総理大臣、明治21年(1888年)4月には初代枢密院議長となった。
明治25(1894)年、2度目の首相在任中に日清戦争が起こると、翌年4月、全権大使として清国全権の李鴻章と下関の春帆楼で交渉をおこない、下関条約により講和し、日本の勝利を確定させた(参考:「春帆樓碑文」)。明治33年(1900年)9月には日本初の本格的な政党政治をおこなうこととなる立憲政友会を創設し、立憲主義・議会政治の確立に多大な貢献をなした。
日露戦争前には、桂太郎・小村寿太郎らが目指す日英同盟の締結は不可能と見て対露宥和策を主張し、みずから訪露して満韓交換による日露協商を提案したがロシア側の拒絶により失敗した。結局、桂・小村路線のとおり日英同盟締結、日露開戦となって、日本は辛くも勝利し、ポーツマス講和条約で、ロシアから朝鮮半島の排他的優先権の承認や南樺太の領有権、遼東半島南端部(関東州)の租借権、南満州鉄道の利権などを得た。戦後、第2次日韓協約により日本は大韓帝国を保護国化し、伊藤は初代韓国統監に就任した。伊藤自身は保護国化で十分とする考えから併合には否定的であったともされるが、初代統監として韓国国民の恨みの対象となり、明治42年(1909年)10月、満州のハルピンで韓国の民族運動家安重根に暗殺された。
明治の政治家の中で最も漢詩にすぐれた一人であり、死後、その詩は「藤公詩存」としてまとめられた。詩人森槐南とも親しく、暗殺された際にも森が同行しており、伊藤の最後の言葉は「森もやられたか」であったと伝わっている(実際には森槐南は軽傷であった)。
⇒ 伊藤博文の漢詩
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