大正天皇の漢詩(7) 示學習院學生(学習院学生に示す)
作者
原文
示學習院學生
修身習學在文園
新固宜知故亦溫
勿忘古人螢雪苦
映窗燈火郭西村
訓読
学習院学生に示す
身を修め 学を習ひて 文園に在り
新しきは固より宜しく知るべし 故きも亦た温ねよ
忘るる勿れ 古人 蛍雪の苦を
窓に映ずる灯火 郭西の村
訳
学習院の学生に示す
行いを正しくし学問を身に着けようと学園にいる諸君学生は
新しい知見はもちろん知るべきであり、古くからの伝統からもまた学ぶべきである
むかしの人が蛍雪のあかりをたよりに学問に励んだ故事を忘れることなく
窓に映る十分な灯りのもと目白の良い環境でしっかり励みなさい
注
學習院:公家の子弟の教育のため弘化4年(1847年)3月9日に京都御所建春門外に開講した學習所を起源とする。その後、孝明天皇から「學習院」の勅額を下賜されてこれを公称としたが(京都学習院)、幕末から明治初期にかけて改称・改編を繰り返した末に消滅した。明治10年(1877年)、東京で華族会館が皇族・華族のための教育機関が開校し、明治天皇の勅諭により「學習院」の称号を継承した。明治17年(1884年)には宮内省所轄の国立学校となった。第2次大戦後は民営化されて私立の学校法人学習院となり現在に続いている。
新固宜知故亦溫:『論語』為政篇の「温故知新」にもとづく。本来の語順としては「固宜知新亦溫故」となるべきところだが、目的語の「新」「故」を前に出す倒置で平仄を整えている。なおこの句は句中対であり、「新固宜知、故亦(宜)溫」の(宜)が省略されたものと見るべきである。
螢雪:蛍雪の功。いわゆる「蛍の光、窓の雪」。貧苦に耐えて学問に励み大成すること。晋の時代、車胤は子供の頃貧しくて灯火のための油を買えなかったが蛍を集めてその光で勉強し、また、同じく貧しかった孫康は窓辺の雪あかりで本を読み、ふたりとも長じてのち高官にのぼった。
郭西村:城郭の西の村。当時、学習院(初等科を除く)は皇居(旧江戸城)の西に位置する目白にあった。
餘論
大正3年(1914年)、学習院に行幸し卒業式に臨んだ際に詠まれた御製とされますが、卒業生というより在学生向けの内容になっています。もちろん、卒業しても学びは生涯続くので、卒業生をも含めた全学生に向けた勧学の詩ととってもいいのでしょう。
転句から結句の流れはほかの解釈もあろうかと思いますが、僕は上記の訳のように解釈しました。
当時の学習院は一般国民の入学はなく、皇族・華族の子弟に限定された教育機関でした。この詩を贈られた学生たちはみな、いわゆる「ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」を負う立場であり、それだけに、「恵まれているのだからしっかり励むように」というこの詩の内容がひときわ重く感じられます。転句は直接には車胤・孫康の故事を忘れるなと述べていますが、その背後には一般国民の苦学生の姿を重ねていたのではないかとも思えます。
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