作者

原文

送藩兵爲天子親兵赴闕下

王家衰弱使人驚
憂憤捐身千百兵
忠義凝成腸鐡石
爲楹爲礎築堅城

訓読

藩兵の天子の親兵と為りて闕下に赴くを送る

王家の衰弱は人をして驚かしむ
憂憤 身を捐つ 千百の兵
忠義 凝って成る 腸鉄石
楹と為り礎と為り堅城を築け

薩摩藩の藩兵が帝のご親兵となって御所へ向かうのを送る

武家の時代が長く続き、朝廷の衰弱は人を驚かせるほどである
それを憂えいきどおる薩摩の数千数百の兵たちが帝のため身を捧げる覚悟で集まったのだ
諸君の忠義はかたまって鉄や石のような堅くゆるぎない心となっている
これから諸君が柱となり礎となって朝廷を守る堅固な城を築いてくれ

天子親兵:帝の直属の兵。江戸幕府は朝廷に政治的な権限を一切認めず、まして軍事力を保有することなど当然許さなかった。幕末以降、天皇と朝廷の権威は復興して明治維新にいたったが、朝廷に自前の兵力が存在しないことには変わりなかった。そこで、明治4(1871)年2月、薩摩・長州・土佐の3藩から兵士を提供して御親兵とすることが決まり、これによって朝廷は総勢一万の兵力を保有することとなった。
闕下:「闕」は宮城の門のこと。「闕下」で、朝廷、あるいは天子のお膝元の意。
:捨てる
千百兵:このとき、薩摩からは歩兵四大隊、砲兵四隊が上京して親兵に加わった。
腸鐡石:「腸」は腹の中、心。鉄や石のように堅くゆるぎない心。「鐡石腸」というべきところだが、平仄の関係で「腸鐡石」としている

餘論

明治4(1871)年、薩長土3藩からの兵力供出により御親兵が創設された際に、親兵に参加することになった薩摩藩兵たちのことを詠んだ詩です。この御親兵創設により軍事的基盤を得た明治新政府は廃藩置県を断行することができました。翌明治5年には御親兵は近衛兵と改称され、天皇直属の近衛都督の指揮下に置かれることとなり、西郷自身も第2代の近衛都督をつとめています。