夏目漱石(なつめ そうせき)

2016年8月7日日曜日

作者


1867(慶応3)年~1916(大正5)年。明治~大正時代の小説家、評論家、英文学者。江戸の牛込馬場下の大名主であった夏目家の末っ子(五男)として生まれた。名は金之助。1歳で塩原家へ養子に出された。養父母の離婚により9歳のとき実家の夏目家へ戻るが、正式な夏目家への復籍が遅れたため、21歳までは塩原姓を名乗っていた。

1884(明治17)年、大学予備門(のちの第一高等学校〔旧制一高、東京大学教養学部の前身〕)予科に入学、1888(明治21)年には本科へ進学し、ここで正岡子規との親交が始まる。子規が自作の漢詩や発句を集めて「七草集」と名付け、学友たちの回覧に付した際には、その巻末に漢文で評を記した。このときに初めて「漱石」という号を用いた。1889(明治22)年の夏には友人たちと房総半島を旅し、その内容を漢文・漢詩による紀行文「木屑録」にまとめている。

1890(明治23)年、帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科へ入学、1893(明治26)年卒業。その後、高等師範学校、愛媛県尋常中学校(旧制松山中学)、第五高等学校(熊本大学の前身)で英語教師・教授として勤務。1900(明治33)年から1902(明治35)年まで文部省の命令により英国へ留学したが、そこで神経衰弱を患う。帰国後、1903(明治36)年に第一高等学校・東京帝国大学の講師に着任した。

1905(明治38)年1月、俳誌「ホトトギス」に小説「吾輩は猫である」を発表し、好評を得た。その後も「倫敦塔」「坊っちゃん」などを執筆し人気作家となっていった。1907(明治40)年2月には、教職を辞して朝日新聞社に入社し職業作家となった。

1908(明治41)年から1910(明治43)年にかけて前期三部作と呼ばれる「三四郎」「それから」「門」を発表。「門」執筆中に胃潰瘍を発症、1910年8月には転地療養先の伊豆修善寺温泉で大量の吐血をし、生死の境をさまよう。この「修善寺の大患」はその後の作品に大きな影響を与えたといわれている。その後も神経衰弱や胃潰瘍に苦しみながらも創作を続け、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』をはじめとする作品を発表した。1916(大正5)年12月、「明暗」執筆中に亡くなった。