武田信玄の漢詩 薔薇 其二(薔薇 其の二)

作者

原文

薔薇 其二

滿院薔薇香露新
雨餘紅色別留春
風流謝傅今猶在
花似東山縹渺人

訓読

薔薇 其の二

満院の薔薇 香露 新たなり
雨余の紅色 別に春を留む
風流の謝傅 今 猶ほ在り
花は似たり 東山 縹渺の人に

薔薇 其の二

庭いっぱいに咲いた薔薇の花には香りを含んだ新鮮な露
雨あがりの花の赤い色は、そこだけ特別に春を留めているようだ
風流で知られた謝安が今なおここにいるかのように
ここの薔薇の花は、東山の薔薇洞に隠棲していた謝安の、はるかに遠く世俗を離れて生きた姿に似ている

謝傅:謝太傅の略。東晋の謝安(320年 — 385年)のこと。若いころは政治を避けて隠棲し、王羲之らと交流を深めた。40歳で初めて出仕したのちは、簒奪をもくろむ実力者の桓温の企てを阻止したほか、華北を統一して南下してきた前秦を淝水の戦いで破るなど東晋王朝の危機を救った。没後、太傅(天子の補佐役。三公の一つ)の職を追贈されたので、謝太傅と呼ばれる。なお、多くの本でここのところを「謝傳(謝伝)」に作るが、その場合、意味がとりにくい。「謝傅」に作るのは一部の本にとどまるが、意味からすると、そちらのほうが正しいと思われるので、ここでも「謝傅」を採用した。
東山:会稽(現・浙江省紹興市)の東の山。山上に薔薇洞があり、謝安はそこに白雲堂・明月堂を建てて隠棲し、宴をもよおしたという。李白《憶東山》「不向東山久、薔薇幾度花、白雲還自散、明月落誰家」
縹渺:遠くかすかなさま。ここでは謝安が俗世をはるか遠く離れているさまを言う。

餘論

この詩の後半は謝安の故事を知らなければ作れませんし、理解することもできません。信玄が相当に漢籍を勉強し、深い教養を身につけていたことを示しています。当時の武士としては非常に珍しかったはずで、したがって、この詩を作っても彼の周囲に内容を理解してくれる人はほとんどいなかったのではないかと思います。