伊達政宗の漢詩 欲征南蠻時作此詩(南蛮を征せんと欲せし時に此の詩を作る)

作者

原文

欲征南蠻時作此詩

邪法迷邦唱不終
欲征蠻國未成功
圖南鵬翼何時奮
久待扶搖萬里風

訓読

南蛮を征せんと欲せし時に此の詩を作る

邪法 邦を迷わし 唱へて終まず
蛮国を征せんと欲すれど未だ功を成さず
図南の鵬翼 何れの時にか奮はん
久しく待つ 扶揺 万里の風

南蛮を征服しようと思ったときにこの詩を作った

邪悪な教えであるキリスト教が我が国を迷わし、その教えを説く声がやむことがない
いっそのこと布教の源である南蛮の国を征服してしまいたいと思うが、まだ成し遂げることができないでいる
鵬が南海をめざして巨大な翼をはばたかせるように出陣するのは一体いつになるだろうか
何万里もの高さへ飛び立つのに適した大きなつむじ風が起こるのを長い間待っているのだが

南蠻:南方の未開の国。戦国時代以降の日本では、東南アジアを経由して日本にやってきたスペイン・ポルトガルを指した。
邪法:キリスト教。天正15(1587)年に豊臣秀吉が発した伴天連追放令に「日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、太以て然るべからず候事」とある。その後、幕府を開いた徳川家康も、慶長17(1612)年に直轄領で、翌年には全国でキリスト教を禁じた。
圖南:南方を目指す企て。
:想像上の巨大な鳥。「荘子」によれば、その背中は何千里にもなり、その翼は天を覆う雲のようであり、海が荒れるときになると、その風に乗じて南海へと飛び立つという。
扶搖:つむじ風。《荘子・逍遙遊扁》「鵬之徙於南冥也、水擊三千里、搏扶搖而上者九萬里(鵬の南冥に徙るや、水に撃つこと三千里、扶搖に搏ちて上ること九万里)」

餘論

制作年が不明のため、どういう背景でこの詩を詠んだのか細かい点がわかりませんが、家康が全国的にキリスト教を禁じた慶長18年(1613年)には、政宗はスペインとの間の通商を求めるため、「慶長遣欧使節」を派遣しています。この使節の派遣は家康の了解を得たものでしたが、このような対外的な積極姿勢は、次第に鎖国へと傾いていく時代の中で幕府からの警戒を招きかねないものでした。現在でも遣欧使節の隠された真の目的は、倒幕のためにスペインからの軍事支援を求めようとするものだったという説があるほどですから、おそらく当時からなにかと憶測を呼んだのではないかと思います。そのような疑念を払拭するために、この詩で「自分が海外へ目を向けるのは、幕府が禁じるキリスト教の根を断とうとする志があるからで、つまり幕府のためなのだ」というアピールをしたかったのでしょう。ただ、この詩にみなぎる雄大な気概は、かえって警戒を招くのではないかという気もします。