永禄3(1560)年~元和5年12月(1619年1月)。戦国~江戸時代の武将。上杉氏の家老。上杉謙信の重臣長尾政景の家臣樋口兼豊の長男として生まれる。通称は與六。長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の間の子で謙信の養子となる景勝に近習として仕えた。天正6年(1578年)、上杉謙信が急死し、景勝と景虎の二人の養子の間で後継者争い(御館の乱)が起こり、これに勝利した景勝が上杉家の当主となった。

御館の乱後、景勝の側近として台頭、天正9年(1581年)には景勝の命により婿養子として名門直江家を継いで、上杉家の重臣となり、内政・外交を一手に取り仕切るようになった。本能寺の変の後、上杉家が豊臣秀吉に臣従するようになると、秀吉からもその才覚を評価され、豊臣の氏を授けられた。慶長3年(1598年)に上杉家が越後から会津120万石に移封されると、兼続は出羽米沢に6万石を与えられた。

秀吉没後、徳川家康が台頭すると、上杉家は家康と対立し、家康は上杉家領内の城の改修を問題視して詰問し、上杉景勝に上洛を命じた。これに対して兼続は「直江状」と呼ばれる挑発的な返答の手紙を送り、家康を激怒させたとされる(今日伝わる直江状の文面は偽作とする説も古くからある)。家康は会津遠征に出陣し、その留守を狙って石田光成が挙兵して関ヶ原の役が勃発する。関ヶ原の戦いは家康の勝利に終わり、三成方に与した上杉家は取りつぶしの危機に瀕するが、景勝・兼続がそろって上洛し家康に謝罪して、米沢30万石への大幅な減封の上で存続を許された。

米沢移封後の兼続は、藩内の新田開発、産業育成のほか、徳川家との関係修復に尽力し、幕末まで続く米沢藩の藩政の基礎を築いた。

当時の武将としては突出した教養の持ち主であり、みずからすぐれた和歌や漢詩を詠んだ文化人であるとともに、幅広い分野の書籍を蒐集・所蔵した蔵書家でもあった。愛宕神社(愛染明王との説も)からとった「愛」の字を前立にあしらった兜を用いたことでも有名である。