松平春嶽の漢詩(10) 五月六日到銅駝府(五月六日 銅駝府に到る)
作者
原文
五月六日到銅駝府
聞説縉紳多罷黜
朝家威德欲衰時
四人爲到銅駝府
願獻丹誠救此危
訓読
五月六日 銅駝府に到る
聞くならく縉紳 多く罷黜すと
朝家の威徳 衰へんと欲する時
四人 為に到る 銅駝の府
願はくは丹誠を献じて此の危を救はん
訳
5月6日、銅駝府にやってきた
聞くところによると、高官たちが多くやめてしまったそうだ
今まさに朝廷の威勢と恩徳が衰えようとしている時である
我々四人はそのために、ここ銅陀坊にある摂政の御屋敷にやってきたのだ
我々のまごころを捧げてこの危機を救いたいと願うばかりだ
注
五月六日:慶應3年5月6日(1867年6月8日)
銅駝府:左京銅駝坊にあった摂政二条斉敬(将軍徳川慶喜のいとこ)邸。銅駝坊は二条以北中御門以南の区域を指す。慶應3年5月4日(1867年6月6日)、京都の福井藩邸で初回の会合をおこなった四侯会議は、2日後の5月6日(6月8日)、場所を摂政二条斉敬邸に移し二条斉敬を加えて第2回会合が行われた。
聞説:聞くところによると
縉紳:紳(大帯)に笏をさしはさむこと。転じて、そういう服装をする高位高官の人。
罷黜:やめてしりぞくこと。朝廷では王政復古派の台頭により、4月に公武合体派の武家伝奏・議奏が解任され、議奏が欠員のままになっていた。この時の四侯会議ではその補充人事をめぐって、二条斉敬と島津久光が激しく対立した。
朝家:皇室、朝廷。
丹誠:まごころ。
餘論
慶應3年5月6日(1867年6月8日)、摂政二条斉敬邸で四侯会議の第2回会合が開かれます(四侯会議については「聞島津隅州乘火舶赴京師有此作(松平春嶽)」「同豫州訪容堂僑居(松平春嶽)」も参照)。この会合で、将軍徳川慶喜のいとこで朝廷内の親幕派の中心である二条斉敬と、雄藩連合により幕府と慶喜を牽制したい島津久光は朝廷の人事をめぐって激しく対立しますが、最終的には二条斉敬に押し切られてしまいます。その後も、場所を二条城や土佐藩邸に移しながら、徳川慶喜も加わって、長州処分問題や兵庫開港問題などを議論しますが、最終的に慶喜側の意向が通るかたちとなります。
四侯会議により政局の主導権を握るという目論見が失敗に終わったことで、薩摩藩は路線を転換、武力倒幕を目指し、岩倉具視らと連携して倒幕の密勅を得るための工作を開始します。一方、土佐の山内容堂は会議の途中から薩摩との間に距離を置き始め、徳川家存続のために後藤象二郎から進言された大政奉還の実現に向けて動きはじめます。この詩は、大政奉還と王政復古へ向かう時代のターニングポイントの直前に詠まれた詩といえます。
四侯会議により政局の主導権を握るという目論見が失敗に終わったことで、薩摩藩は路線を転換、武力倒幕を目指し、岩倉具視らと連携して倒幕の密勅を得るための工作を開始します。一方、土佐の山内容堂は会議の途中から薩摩との間に距離を置き始め、徳川家存続のために後藤象二郎から進言された大政奉還の実現に向けて動きはじめます。この詩は、大政奉還と王政復古へ向かう時代のターニングポイントの直前に詠まれた詩といえます。
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