夏目漱石の漢詩 興津之景淸秀穏雅保田之勝険奇巉峭嘗試作二絶較之 其二(興津の景は清秀穏雅、保田の勝は険奇巉峭、嘗試(こころ)みに二絶を作りて之を較ぶ 其の二)

作者

原文

興津之景淸秀穏雅保田之勝険奇巉峭嘗試作二絶較之 其二

西方決眥望茫茫
幾丈巨濤拍亂塘
水盡孤帆天際去
長風吹滿太平洋

訓読

興津の景は清秀穏雅、保田の勝は険奇巉峭、嘗試(こころ)みに二絶を作りて之を較ぶ 其の二

西方 眥を決すれば望み茫茫たり
幾丈の巨濤 乱塘を拍(う)つ
水尽きて孤帆 天際に去り
長風 吹き満つ 太平洋

興津の景色は清らかでうるわしく穏やかで優雅だが、保田の景色は険しく奇抜で高く切り立っている。ためしに二首の絶句を作って両者を比べてみる その二(保田)

西方にむかって眼を見開くと視界は広々と果てしなく広がり
何丈もの高さの巨大な波がごつごつした岩の並ぶ磯に打ちつける
海が尽きる水平線のあたり、一隻の船が空の果てへと消えていき
そのあとにははるか遠くからの風が広い太平洋いっぱいに吹き満ちている

決眥:まなじりも裂けるばかりに眼を見開く
茫茫:果てしないさま、ぼんやりしたさま
亂塘:「亂」は整然としていないこと、「塘」は本来、土手だが、ここでは海岸のこと。岩が乱雑に重なる磯のこと。
水盡:海が尽きる。海が空に接する水平線のあたりのこと。
孤帆:「帆」は船を指す。ぽつんと浮かぶ一隻の船。
天際:空の果て。李白《黄鶴樓送孟浩然之廣陵》「孤帆遠影碧空盡 惟見長江天際流」
長風:遠くから吹いてくる風

餘論

夏目漱石が明治22年(1889年)の夏に旅行した興津と保田を比べて作った絶句の、保田のほうです(詳しくは「興津之景淸秀穏雅保田之勝険奇巉峭嘗試作二絶較之 其一」をご覧ください)。興津を詠んだ詩と比べてみると、前半部分はそれぞれの特徴を強調して表現していますが、後半部分はどちらも大海原の果てをいく船を描いていて似通っています。

なお、承句の「濤」は「孤平」(七言の近体詩で一句の四字目が平声のとき、その前後が仄声であること)という禁忌をおかしています。また起句の「西方」の「方」と、結句「長風」の「長」は、ともに「冒韻(韻字と同じ韻に属する字を押韻部分以外で用いること。近体詩では禁忌だが、日本人の詩ではしばしば見られる) 」です。晩年、恐ろしいほど緻密で深遠な律詩を何かの修行のように作り続けた漱石には似つかわしくない手落ちですが、この頃はまだそこまで神経を注いで作詩はしていなかったのかもしれません。「巨濤」を「驚濤」とか「奔濤」とかにすれば孤平は簡単に解消できますが、あるいは「巨」にこだわりがあって孤平を避けることより優先してしまったのでしょうか。