松平春嶽の漢詩(8) 聞島津隅州乘火舶赴京師有此作(島津隅州の火舶に乗じて京師に赴くを聞き此の作有り)
作者
原文
聞島津隅州乘火舶赴京師有此作
火船聞説向櫻宸
直截風濤疾似神
行色促來吾欲發
平生盟約在斯辰
訓読
島津隅州の火舶に乗じて京師に赴くを聞き此の作有り
火船 聞くならく 桜宸に向かふ
直(ただ)ちに風濤を截って疾きこと神に似たり
行色 促し来たって 吾 発せんと欲す
平生の盟約 斯(こ)の辰(とき)に在り
訳
島津大隅守が蒸気船に乗って京の都に向かうというのを聞いて此の詩を作った
聞くところによると、島津殿の蒸気船が桜咲く御所へ向かっているという
その船は一気に荒波を切り裂いて進み、その速さはまるで神業のようであろう
この話を聞くにつけ、旅に出たい気持ちが湧き上がってきて、私も京へ出発したくなった
普段から島津殿とかわしていた盟約はまさに今この時のためなのだ
注
島津隅州:島津大隅守。島津久光のこと。豫州牧であった劉備を「劉豫州」と呼ぶのに同じ。
火舶・火船:蒸気船のこと。火輪船ともいう。
聞説:聞くならく。聞くところによると。
櫻宸:桜の咲く御所、の意か。あまり見ない語である。すくなくとも中国での用例はないであろう。
風濤:風と大波。
行色:旅に出る前後の気分。《荘子・盗跖》「今者闕然數日不見、車馬有行色、得微往見跖耶」
辰:とき。
餘論
慶應3年3月25日(1867年4月29日)、薩摩藩の国父島津久光が、西郷隆盛ら七百名の藩兵を率いて、蒸気船三邦丸で鹿児島を出発し、京都へ向かいます。4月11日(5月14日)には大阪湾から淀川へ入り、淀川をさかのぼって、翌日には京都に入ります。この詩は、福井藩の最高実力者松平春嶽が、この島津久光上洛の報を聞いて作った詩です。春嶽と久光はともに雄藩のリーダーとして親交があり、文久の改革(1862年)で春嶽が政事総裁職についたのも、久光が率兵上洛して朝廷を動かしたことによるものでした。その後、元治元年(1864年)の参預会議には両者ともに参預として参加し朝廷・幕府・雄藩連携路線を勧めようとしますが、一橋慶喜との対立によって頓挫します。この詩の前年には薩長同盟が締結され、時代はひそかに倒幕へと向かいつつありましたが、久光はまだ公武合体と雄藩連合による事態打開をあきらめてはいませんでした。その点で、春嶽と久光は政治方針を共有しており、「平生の盟約」というのは、そのことを指しています。
この詩をそのまま受け取ると、島津久光上洛の知らせを聞いたことで春嶽のテンションが上がり、「俺も行くぞ」と上洛を決めたかのように思えますが、実際には、列侯会議によって将軍徳川慶喜を牽制しようとする薩摩藩首脳から事前にはたらきかけを受けて会議参加を受諾しており、この詩を作った時点で上洛を決めたわけではありません。事実としては、久光が京都に向かっているという知らせを受けて、「じゃあ、そろそろ俺も出発しようか」という感じだったのでしょうが、それでは詩にならないので、ちょっと誇張して、このような内容になっているわけです。
このあと春嶽は4月12日(5月15日)に福井を出発し、4日後に京都に入ります。そして、久光や土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城と四侯会議を開催することになります。
この詩をそのまま受け取ると、島津久光上洛の知らせを聞いたことで春嶽のテンションが上がり、「俺も行くぞ」と上洛を決めたかのように思えますが、実際には、列侯会議によって将軍徳川慶喜を牽制しようとする薩摩藩首脳から事前にはたらきかけを受けて会議参加を受諾しており、この詩を作った時点で上洛を決めたわけではありません。事実としては、久光が京都に向かっているという知らせを受けて、「じゃあ、そろそろ俺も出発しようか」という感じだったのでしょうが、それでは詩にならないので、ちょっと誇張して、このような内容になっているわけです。
このあと春嶽は4月12日(5月15日)に福井を出発し、4日後に京都に入ります。そして、久光や土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城と四侯会議を開催することになります。
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