伊藤博文漢詩 自淸國歸朝有作(清国より帰朝して作有り)

作者

原文

自淸國歸朝有作

解紛不用干戈力
談笑之間又締盟
萬里歸舟風浪静
載將春色入京城

訓読

清国より帰朝して作有り

紛を解くに干戈の力を用いず
談笑の間に又た盟を締(むす)ぶ
万里の帰舟 風浪 静かに
春色を載せ将(も)って京城に入る

清国から帰国して詩を作った

紛争解決に武力を用いることもなく
なごやかに談笑している間に盟約を締結することができた
日本へ帰る万里の船旅では、風も波もおだやかで
のどかな春の雰囲気を船に載せて東京へと戻ってきた

解紛:紛争を解決する。このときの紛争は明治17年(1884年)12月、朝鮮で起きた甲申事変のこと。この事変は、清国との宗属関係を破棄し名実ともに独立国として近代化を図ろうとする急進開化派の独立党が日本公使館の支援を受けてクーデターを起こし新政権を樹立したものの、駐留清国軍の介入によってわずか3日で崩壊した事件。事変後、日清両国の駐留軍が朝鮮国内で睨み合う状況となり緊張が高まったため、明治18(1885)年3月、日本から全権代表として伊藤博文が清国に入り、天津において清国側全権・李鴻章と交渉をおこない、4月18日、天津条約を締結した。
干戈:盾と矛。武器。転じて武力、戦争のこと。
締盟:誓いを結ぶ。条約をとりかわす。「藤公詩存」では「諦盟」となっているが、明らかに誤字である。
載將:ここの「將」は助字で、動詞のうしろについて「~しつつ」「~しながら」程度の意味を添える。
京城:みやこ。ここでは東京。

餘論

明治18(1885)年4月、日清間で甲申事変後の処理を定めた天津条約を締結して帰国した際に伊藤博文が詠んだ詩です。この詩を読むと、いたってスムーズに交渉が進んで日本の思い通りの条約が成ったかのように思えてしまいますが、現実はまったく異なっていました。両国軍の朝鮮からの撤兵については、双方異論なかったものの、将来の出兵については、第三国からの侵略がない限り両国とも朝鮮へ出兵すべきでないと主張する伊藤に対し、李鴻章は朝鮮に対する宗主権をたてに、朝鮮からの出兵依頼があれば内乱等であっても清国は出兵すると主張して交渉は難航しました。また、甲申事変の際に混乱のなかで日本の居留民が多数殺害された件についても、伊藤は、これに清国軍が関与したとして指揮官の処罰を求めましたが、李鴻章は、殺害は暴徒化した朝鮮軍民によるもので清国軍は関与していないと突っぱねます。最終的に、以下の内容で条約が締結されます。

①日清両国は即時撤兵を開始し、4ヶ月以内に完了する
②日清両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しない。朝鮮は第三国から軍人を招聘する
③両国が将来朝鮮に出兵する場合は、相互事前通知を必要とする

伊藤が主張した永久撤兵論はしりぞけられ、清国は緊急時の出兵権を確保しました。日本側としては、相互事前通知の義務を課すことでかろうじて清国を牽制するにとどまっています。また、日本人居留民殺害に関しては条約では触れられず、「清国は再調査をおこない、清国軍の関与の事実が確認できれば将官の処罰をおこなう」という旨の照会文を取り交わしただけでした。この事実を踏まえたうえで詩を読むと、何をのんきに「春色を載せ将って京城に入る」などと言っているのかと思うかもしれません。しかし、徹底的なリアリストの伊藤からすれば、清国との軍事衝突を避けられただけで万々歳というのが偽らざる心情だったと思われます。当時の日本国内はマスコミも含めて対清強硬論が沸騰していましたが、もしこの時点で日清戦争が起きていたら、当時の両国の力から考えて、日本が敗れて列強の半植民地になった可能性は否定できず、そんな事態を回避できたという、より大局的な視点に立った満足と安堵がこの詩に表れているのでしょう。

甲申事変の10年後、日清戦争が勃発し、下関講和会議において、伊藤と李鴻章はふたたび相まみえますが、戦勝国と敗戦国として両者の明暗ははっきりと分かれることとなります。ひょっとしたら、そのとき伊藤はこの詩を思い出したかもしれません。