高杉晋作の漢詩 次野村靖之助韻(野村靖之助の韻に次す)

作者

原文

次野村靖之助韻

既是斷頭場上人
又爲花柳冶遊身
如斯大罪無容地
負國負朋且負親

訓読

野村靖之助の韻に次す

既に是れ断頭場上の人なるに
又た花柳冶遊の身と為る
斯(か)くの如き大罪 容(い)るるの地無し
国に負(そむ)き 朋に負き 且つ親に負く

野村靖之助の詩に次韻して作った

私はすでに一度は刑場に送られることになっていたのに
命拾いして再び花街で芸者遊びをする身となっている
これほどの大罪が許されるところはどこにもあるまい
藩を裏切り、友を裏切り、さらには親も裏切ったのだから

次~韻:他の人の作った詩と同じ韻字を使って詩を作ること。この詩は野村靖之助が作った詩と同じ韻字(人・身・親)を使って詠んだものだが、元となった野村の詩は不明。
野村靖之助:野村靖(1842~1909)。靖之助は通称。長州藩の足軽出身。松下村塾で学んだ。高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文らともに尊王攘夷運動にかかわり、維新後は神奈川県令や枢密顧問官、内務大臣、逓信大臣などを歴任した。
断頭場:罪人の首を斬る場所。刑場。
花柳:いろざと。くるわ。遊里。花街。
冶遊:こころのとろける遊び。芸者遊び。

餘論

高杉晋作は元治元年1月(1864年3月)、脱藩して上洛します。2月には桂小五郎に説得されて長州に戻り、脱藩の罪により野山獄に投獄されます。脱藩は重罪ですから、詩中にあるとおり死罪となる可能性もありましたが、6月には釈放されて自宅の座敷牢での謹慎を命じられます。8月になり、英仏米蘭四国連合艦隊が下関の砲台を占拠すると、罪を許されて講和交渉を任され、通訳をつとめた伊藤博文とともに講和をまとめあげました。

いったんは死罪になりかけたとはいえ、そんなことで身を慎むような晋作ではありませんから、遊びをひかえることもなかったのでしょう。詩を文字通りに読むと自己嫌悪の表明のように見えますが、一方では「俺はこんなふうにしか生きられない」という叫びのようでもあります。