松平春嶽の漢詩 上巳

作者

原文

上巳

何管滿城風雨聲
桃花灼灼慰幽情
母妻環坐傾杯處
人勝開顔坐錦棚

訓読

上巳

何ぞ管せんや 満城 風雨の声
桃花 灼灼として 幽情を慰む
母妻 環坐して 杯を傾くる処
人勝 顔を開いて 錦棚に坐す

上巳の節句

あいにくの天気で城内には風雨の音が満ちているが、気にはしない
桃の花は輝くように咲き誇り、心に秘めた悲しみをなぐさめてくれる
母や妻たちが輪になってすわり、杯を傾けてお酒を飲んでいるそばでは
雛人形が笑みを浮かべて錦を敷いた雛壇にすわっている

上巳:五節句のひとつ。3月3日。桃の節句。
何管:「管」は「気にする、気にかける」。どうして気にするだろうか、気にはしない。
灼灼:花が輝くようにさかんに咲いているさま。《詩経周南・桃夭》「桃之夭夭、灼灼其華」
幽情:静かな心情。心の奥深くいだく気持ち。
環坐:輪になって坐る。
人勝:本来の意味は、中国で人日(正月七日の節句)に用いる人の形をした飾りのことで、屏風にはりつけたり、髪飾りにしたりした。しかし、ここでは、雛人形のことを指していると思われる。
開顔:顔の表情をのびのびさせる。にこにこする。笑みを浮かべる。
錦棚:「棚」は木を組んでスペースを作り、物を載せたり、覆ったりするもののことで、たな、ひさし、かけはしなどを意味する。ここでは雛壇のことであろう。

餘論

慶應3年3月3日(1867年4月7日)、150年前の桃の節句に詠まれた詩です。前年の年末12月25日に孝明天皇が崩御、正月27日にはその葬儀がおこなわれていますが、3月には自粛ムードも解け、桃の節句も華やかに祝われたのでしょう。もちろん桃の節句ですから主役は女性たちであり、春嶽はそれを見守りつつ詩を詠んでいるわけです。女性たちの華やかな姿を見て、孝明天皇崩御以来、沈みがちだった春嶽の気持ちも多少は晴れたことでしょう。

転句に「母妻環坐」とありますが、養父松平斉善(第15代福井藩主)は若くして亡くなり妻がなかったので養母は存在せず、この「母」というのは実母の青松院(お連衣の方。田安徳川家3代徳川斉匡の側室)のことです。養子に入る先に実母を連れてくるのは珍しいことですが、春嶽のたっての願いで福井に迎え入れられたといいます。春嶽が福井松平家に養子に入って家督を継いだのはわずか11歳のときですから、実母を恋い慕う気持ちから異例の措置を強行したとしても責められることではないでしょう。「妻」としては正妻の勇姫(熊本藩主細川斉護の娘)のほか、当然、側室も含まれます。最低でも四、五人はいないと、「環坐」にはなれませんから。