新井白石 春日送人(春日 人を送る)

作者

原文

春日送人

楊花飄盡水生衣
可忍春歸客亦歸
不似雕梁新燕子
風前猶作一双飛

訓読

春日 人を送る

楊花 飄(お)ち尽くして 水 衣を生じ
忍ぶべけんや 春 帰り 客も亦た帰るを
似ず 雕梁の新燕子の
風前に猶ほ一双を作して飛ぶに

春の日に人を送る

やなぎのわた花は風に散りつくし、川にはミズゴケが繁茂してきた
春が過ぎ去り、さらに君までもここを去って帰っていくことに、どうして耐えられるだろうか
きれいな彫刻をほどこした梁に巣をかまえた燕が
風の中でもなお、ペアになって楽しそうに飛んでいるのとは大違いだ

楊花:やなぎのわた花。柳絮。白い綿毛をつけた種子が晩春のころ乱れ飛ぶもの。厳密には「柳」はシダレヤナギ、「楊」はネコヤナギだが、区別が曖昧にされて使われることが多い。これは「柳絮」は「仄・仄」であり、「楊花」は「平・平」であるため、平仄の都合で両者を使い分けるのが作詩上便利なためである。ここでも特に区別せずヤナギ全般を指していると思われる。古来、ヤナギが送別の象徴としての意味を持つことについては林羅山「柳塘春風」を参照。
:風に吹かれて散り落ちる
水生衣:「水衣」でミズゴケを指すことから、「川にミズゴケが生えてくる」という意にとった。別の解釈としては、「ヤナギのわた花が水面に散り敷いて衣ができたようだ」と取ることも可能。
可忍:文字通りに読めば「忍ぶべし(たえることができる)」となるが、「忍」や「堪」は肯定形のままで反語の意味をあらわすことが非常に多い。ここも反語であって「忍ぶべけんや(どうして耐えることができるだろうか、いや耐えられない)」の意味である。
春歸:春が去っていく。
客亦歸:「客」は本来の住まいを離れている人の総称。郷里にでも帰っていくのであろう。
雕梁:きれいな彫刻をほどこした梁(はり)。
新燕子:南国から帰って来たばかりのツバメ。「子」は名詞にそえる接尾語であって、「子供」の意ではない。「帽子」の「子」に同じ。
一双:つがい。ペア。

餘論

春も終わろうとするある日、白石が去りゆく友人を送って詠んだ詩です。送られる相手のことを「客亦歸」と表現しているので、遊学を終えて故郷に帰る人なのかとも想像されますが、詳細は不明です。もちろん、この詩が題詠(決められたテーマに従って詩を作ること。空想・虚構に基づくことが多くなる)によるもので、送別の相手は実在しないという可能性もあります。

後半、ツバメが登場しますが、ツバメは雌雄が仲良くつがいで舞い飛ぶことから、漢詩では親密な友人関係あるいは恋愛・夫婦関係の象徴として、さらには逆に、親密な人との離別を思い起こさせる存在として用いられます。この詩でも当然、そのイメージを利用しています。漢詩についての十分な知識がなければ作れない詩であることは間違いありません。