大久保利通の漢詩 明治二年二月廿五日臨發鹿兒島留別(明治二年二月廿五日、鹿児島を発するに臨み留別す)

作者

原文

明治二年二月廿五日臨發鹿兒島留別

滿城春色落花香
嬌嬌鶯聲對夕陽
多少別魂誰得識
風前楊柳萬條長

訓読

明治二年二月廿五日、鹿児島を発するに臨み留別す

満城の春色 落花 香り
嬌嬌たる鶯声 夕陽に対す
多少の別魂 誰か識るを得ん
風前の楊柳 万条 長し

明治2年2月25日、鹿児島を出発するのに臨んで別れの詩をのこす

春景色が街いっぱいにあふれ、落花が香り
ウグイスのなまめかしい囀りのなか、夕日に向き合う
私が抱く別れの思いがどれほどのものか、いったい誰にわかるだろう、誰にもわかるまい
風に吹かれる柳のたくさんの枝が長々と伸びているのを見ると別れが一層切なくなる

明治二年二月廿五日:1869年4月6日
留別:旅立つ人が送ってくれる人に別れを告げる。別れの気持ちを後にとどめる。送別の逆。
嬌嬌:なまめかしい
多少:たくさんの。あるいは、どれほどの。
楊柳:厳密には「楊」はネコヤナギ、「柳」はシダレヤナギを指すが、詩文ではしばしば区別はあいまいにして用いる。ここでももっぱらシダレヤナギを意図しているであろう。ヤナギが別れのイメージを象徴することは林羅山「柳塘春風」を参照。
萬條:「條」は枝。何万もの枝。非常にたくさんの枝。

餘論

明治2年2月13日(1869年3月25日)、大久保は勅使・柳原前光とともに、鹿児島に帰藩しました。維新政府の改革に対して反発を強める島津久光を政府に取り込み協力を取り付けるためです。島津久光はこれに応じて2月26日(4月7日)に鹿児島を出発して上洛、3月6日(4月17日)に従三位・参議の昇叙補任を受けたので、大久保の任務は一応は達せられたといえます。しかし、これは決定的な対立を避けるための妥協にすぎず、これ以降も久光は新政府への不満を隠しませんでした。2年後の明治4年7月の廃藩置県の際には久光は激怒し、一晩中花火を打ち上げて抗議の意を示したといいます。

この詩が詠まれたのは、2月25日、久光とともに鹿児島を出発する前日です。大久保にとって久光は自らを抜擢してくれた大恩ある元主君(久光のほうは「元」とは思っていなかったでしょうが)ですが、このときの大久保はその元主君の首に鈴をつける役割を担わされていたわけですから、言葉にできない複雑な思いを抱えていたことでしょう。この詩は単なる別れの詩の形を取っていますが、大久保が本当に別れを告げているのは、目の前で送ってくれている人ではなく、自らの過去としがらみ、そして、この国の旧体制と旧権力だったのかもしれません。そうだとすれば、その複雑な思い、苦しみはまさに「誰か識るを得ん」、余人がはかり知ることのできないものだったに違いありません。