新井白石(あらい はくせき)

2017年4月13日木曜日

作者


明暦3年2月10日(1657年3月24日)~享保10年5月19日(1725年6月29日)。江戸時代中期の政治家、儒学者。通称は与五郎、勘解由(受領名)、実名(名乗り)は君美(きんみ)。白石は号。江戸幕府6代将軍徳川家宣・7代将軍家継に侍講(家庭教師)として仕え、無役の旗本でありながら実質的な幕政トップとして「正徳の治」と呼ばれる諸政策を主導した。

幼少期から聡明で、学問に非凡な才能を示し、天和3年(1683年)から大老の堀田正俊に仕えたが、貞享元年8月28日(1684年10月7日)、正俊が若年寄・稲葉正休に殿中で刺し殺されたあと、堀田家は懲罰的移封で財政が悪化し、白石は自ら身を引いて浪人となった。

浪人となった白石は、貞享3年(1686年)、儒学者木下順庵の門下に入り、雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海ら後に高名となる秀才たちとともに学問に励んだ。順庵からも学才を高く評価され、大藩で学問もさかんな加賀藩への仕官を紹介されたが、同門の岡島忠四郎から「加賀には年老いた母がいる。どうかその仕官を譲ってほしい」と懇願されてそれを受け入れ、自らの代わりに岡島を推薦したという。その後、将軍綱吉の甥である甲府藩主徳川綱豊から順庵のもとに弟子の推挙の依頼があったが、綱豊は将軍綱吉から疎んじられ将来性がないと見られており、提示された俸禄も低かったため、順庵は推挙を渋った。しかし白石は「将軍家の分家である甲府徳川家は他藩と異なり別格」として順庵に推挙を依頼し、元禄6年(1693年)、綱豊の侍講となった。綱吉が世継ぎを得られなかったため、宝永元年12月5日(1704年12月31日)、綱豊は正式に将軍世嗣となり、名を家宣とあらためた。宝永6年1月(1709年2月)、綱吉の死去により家宣が6代将軍となり、甲府家臣団は幕臣に組み入れられたため、白石は直参旗本となった。

将軍家宣は白石を全面的に信頼し、政策はすべて白石に諮問してその助言に従った。これにより、幕閣でも側用人でもない無役の旗本が実質上、幕政を取り仕切るという前代未聞の体制が始まった。白石は側用人の間部詮房と連携して諸政策を実施し、後世に「正徳の治」と呼ばれる一時代を築いた。経済面では、綱吉の治世に品質を下げて大量に鋳造された元禄金銀・宝永金銀を回収し良質の正徳金銀を鋳造することでインフレを抑制し、海外への金銀流出を防ぐため長崎貿易の統制を強化しつつ輸入品の国産化を推進した。外交では朝鮮通信使の待遇を簡素化し、朝鮮側の国書の宛先(将軍の呼称)を「日本国大君」から「日本国王」に変更させた。また武家諸法度を改定して綱吉以来の文治政治の理念をさらに明確化した。正徳2(1712)年、将軍家宣が亡くなり、嫡子の家継が7代将軍となった後も白石はひきつづき家継を補佐して実権を握ったが、強硬な政治姿勢に対して幕閣らの抵抗が激しさを増していった。正徳6(1716)年、家継が亡くなると、白石と間部は後継として尾張藩主徳川継友を推していたが、最終的に反白石の幕閣が推す紀州藩主徳川吉宗を大奥の天英院(家宣の正室)も支持して、吉宗が8代将軍となった。これにより白石は失脚し、政治活動から退くこととなった。引退後は千駄ヶ谷に隠棲して学問と著述に専念し、享保10年5月(1725年6月)亡くなった。

白石の諸政策については批判的な評価も少なくはない。特に経済政策に関しては、経済規模の拡大に対応した前政権時代のインフレ政策を転換して通貨供給量を減少させたことでデフレと経済停滞を招いたとする見方が一般的になりつつある。とはいえ、江戸時代を通じて屈指の学識を備えた知識人であったことは確かであり、当時の儒学者としてはきわめて柔軟な頭脳の持ち主でもあった。諸大名の家系図を整理した『藩翰譜』、日本政治史を分析・批評した『読史余論』、イタリア人宣教師シドッチへの尋問に基づいて西洋事情・世界地理を解説した『西洋紀聞』『采覧異言』、日本人初の自伝『折たく柴の記』など数多くの著作は余人をもっては決して成しえなかったものと言ってよい。また、若いころから詩才にすぐれ、天和2(1682)年、26歳のとき、それまでに作りためていた漢詩百首をまとめた詩集を朝鮮通信使に提示する機会を得、最大級の賛辞を含む序文を贈られている。