森鷗外の漢詩 賣漿婦(売漿の婦)

作者

原文

賣漿婦

一杯笑療相如渇
粗服輕妝自在身
冷淡之中存妙味
都城有此賣漿人

訓読

売漿の婦

一杯 笑って療(いや)す 相如の渇
粗服 軽妝 自在の身
冷淡の中 妙味存す
都城 此の売漿の人有り

ソーダの売り子

その人が一杯のソーダ水を笑って差し出すと、かの司馬相如のような猛烈なのどの渇きも癒される
粗末な服装に薄化粧で、自由自在に生きている
彼女も、彼女が売るソーダも、冷たくあっさりした中に言うに言われぬ味わいがある
帝都ベルリンにこのようなソーダの売り子がいるのだなあ

賣漿婦:ソーダの売り子。「漿」は調理した飲み物、汁など。ここではソーダ水のような清涼飲料水。
相如:司馬相如(BC179~117)。前漢時代の文人。「賦」の名手として知られ、武帝にその才能を高く評価されて寵愛された。妻となる卓文君との恋愛譚も有名。消渇(糖尿病)をわずらっていたため頻繁にのどの渇きをうったえたことから、後世、激しいのどの渇きをあらわす比喩として用いられた。李商隠《漢宮詞》「侍臣最有相如渇 不賜金茎露一杯」
粗服:粗末な服装。
輕妝:薄化粧。あっさりした化粧。
自在:思いのまま。いろいろなことにとらわれないこと。
冷淡:情愛が乏しい、つれない。また、飾り気がなくあっさりしている。
妙味:言うに言われぬすばらしい趣。
都城:都の街。ドイツ帝国の首都ベルリン。

餘論

「詠伯林婦人七絶句(伯林[ベルリン]の婦人を詠ずる七絶句)」と題する連作のうちの一首です。この連作は、鷗外がドイツ留学(1884年10月~1888年7月)中に記した「獨逸日記」の附録として載せられているもので、「ベルリン女博物誌」という風俗誌を題材にして詠じたものらしいのですが、直接的には本を見ながら詩を作ったとしても、実際にベルリンで見聞きしたものが当然内容に反映されているものと思われます。

ドイツ留学中の鷗外は、後進国からやってきた留学生として祖国を代表しているという緊張感、一家の期待と将来を一身に背負っているという重圧、医師として最先端の医学を学んで日本に持ち帰らなければならないという使命感、などなど尋常ではない重荷を負っていたと思いますが、それをおくびにも出さないのが超優等生鷗外の鷗外たるゆえんです。そんな鷗外が、ソーダの売り子の「自在の身」、つまり、なにものにもしばられない生き方(鷗外にはそう見えたのでしょう)に対して感じた羨ましさと憧れをこめたのがこの詩です。

一般的な見方をすれば、未来を約束された超エリートの鷗外と、収入もわずかで何の保証もないソーダ売りとでは、鷗外のほうを圧倒的に羨ましいと思うでしょう。そんな鷗外がソーダの売り子に対して羨ましさ、憧れを示すことを嫌味に感じる人もいるかもしれません。キャリア官僚がフリーターに向かって「自由でうらやましい」と言うようなものですから、優越感の裏返しだと見られても仕方がないところがあります。ただ、私としては、あの鷗外がこのような感情を漏らしたことに好感を抱きます。自らに課せられたすべての役割をすべて完璧にこなして愚痴ひとつこぼさない、そんなイメージの鷗外が、異国でふっと漏らした溜息のような感情だと思うからです。あの鷗外も実はしんどかったのではないか(本人自身がそのしんどさに気付いていなかったとしても)、そう思うと、私のようなダメ人間はなぜかホッとするのです。