天正11年(1583年)~明暦3年1月23日(1657年3月7日)。諱は信篤、通称は又三郎、号は羅山。出家した後は道春とも号した。江戸時代初期の儒学者。徳川家康・秀忠・家光・家綱の四代の将軍に仕えて、儒学の一派である朱子学を官学化するとともに、各種の制度や儀礼を定めて、幕藩体制における秩序の確立に貢献した。

天正11年(1583年)京都で生まれた。父は浪人だったという。幼少期から非常に頭がよく、はじめ仏教を学んだが、僧侶になることは拒否し、その後は朱子学を学んで、慶長9年(1604年)に儒学者藤原惺窩の門下に入った。羅山の優秀さに驚いた惺窩の推挙により、慶長10年(1605年)、羅山は若くして大御所徳川家康のブレーンに加わることとなった。
慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件では、「国家安康」「君臣豊楽」「右僕射源朝臣家康」の銘文を問題視する見解を家康に献じ、これが大阪の陣の原因となった。現在、この事件は豊臣方を攻撃する口実を得るための徳川方の「こじつけ」と見るのが一般的だが、当時の武家社会における「諱(実名・名乗り)」の重要性を考えれば必ずしもこじつけとは言えない。

寛永元年(1624年)には3代将軍家光の侍講となり、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの起草・撰定、朝鮮通信使の応接、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』など歴史書の編纂をおこない、幕府の制度・儀礼の確立、文化的権威付けに活躍した。

寛永7年(1630年)、家光から江戸の上野忍岡に土地を与えられて、そこに私塾と孔子廟をあわせた忍岡聖堂を建てて、多くの門人を育成した。この聖堂がのちの昌平坂学問所(湯島聖堂)の前身である。

明暦3年1月19日(1657年3月3日)、明暦の大火によって自宅と書庫を焼失し、落胆のあまり病に倒れ、4日後に亡くなった。