吉田松陰の漢詩(4) 蘇道記事

作者

原文

蘇道記事

蘇道梅天不耐涼
山郷風物異他郷
新秧插後麦猶緑
方是家家蚕事忙

訓読

蘇道記事

蘇道の梅天 涼に耐えず
山郷の風物 他郷に異なる
新秧 挿したる後 麦 猶ほ緑にして
方に是れ 家家 蚕事忙し

木曽街道の様子を記す

木曽街道の梅雨時は涼しすぎて耐えられないほどで
山国の風物は他の地方とは異なっている
田植えのすんだ後なのに麦はまだ青々としていて
ちょうどその頃、家々はカイコの世話で忙しい時期なのだ

蘇道:木曽街道。漢詩文では日本の地名を唐風に言い換えることが多く、木曽は「岐蘇」と書かれるため、「岐蘇の道」を略して「蘇道」となる。
梅天:梅雨空、あるいは梅雨時。
新秧插後:田植えのすんだ後。「秧」は稲の苗。「插秧(秧を挿す)」で田植えをするという意味になる
麦猶緑:普通の地方であれば、梅雨時には麦はすでに黄色に熟しているか、刈り取られているはずだが、この木曽ではまだ青々としている、ということ。
方是:ちょうど~である
蚕事:カイコの世話。日本は古代に大陸から養蚕技術を導入したが、本格的に発展したのは江戸時代で、松陰の生きた幕末期は画期的な養蚕技術の開発が進んで国産生糸の品質が大きく向上した。

餘論

嘉永6(1853)年5月の作。諸国遊学の途中で通った木曽路の情景をスケッチした詩ですが、木曽の農村の特徴を描いてうまくまとまっています。この詩が作られた2ヶ月後には、黒船来航によって幕末の動乱の幕が開き、翌年には日米和親条約、5年後には日米修好通商条約が締結されて外国との貿易が始まりますが、その際、日本からの最大の輸出品となったのは、まさに結句で触れられている養蚕業が生み出す生糸でした。そのことを考えると、ここに描かれているのどかな農村風景も、間もなく始まる幕末動乱という嵐の前の束の間の静けさといえるかもしれません。