福澤諭吉 憶二子航米國在太平洋上(二子の米国に航して太平洋上に在るを憶ふ)

作者

原文

憶二子航米國在太平洋上

月色水聲遶夢邊
起看窗外夜凄然
煙波萬里孤舟裡
二子今宵眠不眠

訓読

二子の米国に航して太平洋上に在るを憶ふ

月色 水声 夢辺を遶(めぐ)る
起きて窓外を見れば夜 凄然たり
煙波万里 孤舟の裡(うち)
二子 今宵 眠るや眠らざるや

二人の息子が米国へ航海して太平洋上にいるのを思う

月明かりと水の流れる音が私の夢の世界を包みこみ
目が覚めて起き上がり窓の外を見ると、すっかり夜もふけて寒々しい
こんなとき、気にかかるのは、万里の彼方まで霧にけぶる大海原を進む一隻の船の中で
我が子ふたりが今夜ちゃんと眠れているだろうかということだ

二子:福澤の二人の息子。長男一太郎と次男捨次郎。明治16年(1883年)、留学のため米国へ向かった。
凄然:冷え冷えとしたさま。さびしいさま。
煙波:霧や靄がたちこめている水面。
眠不眠:眠っているだろうか。「肯定形+否定形」で疑問の意味になるのは現代中国語と同じ。

餘論

留学のため船で米国へ向かっている二人の息子の安否を気遣って作られた詩です。福澤自身、若き日に咸臨丸に乗船して太平洋を横断し、米国を訪れています。この咸臨丸による太平洋横断は、日本人が操縦する蒸気船による初の太平洋横断として知られています(実際には技術アドバイザーとして同乗した米国人乗員の助けも大きかったといわれますが)。咸臨丸の頃と比べれば遠洋航海もはるかに安全になっていたとはいえ、海外への渡航などまだまだ特殊だった時代ですから、航海の安全を祈る気持ちはひとしおだったろうと思います。その一方で、かつて幕末に自分たちが命がけで切り開いた太平洋航路を、二十余年たった今、息子たちが進んでいるということに、一種、誇らしい気持ちもあったかもしれません。