吉田松陰の漢詩 拜先考墳淚餘作詩(先考の墳を拝して涙余 詩を作る)

作者

原文

拜先考墳淚餘作詩

治久邦家天歩艱
才疎自悼保生難
高墳重祭又何日
好向黄泉苦問安

訓読

先考の墳を拝して涙余 詩を作る

治 久しくして邦家の天歩 艱(なや)み
才 疎くして自ら悼む 生を保つことの難きを
高墳 重ねて祭るは又た何れの日ぞ
好し黄泉において苦(ねんご)ろに安を問はん

亡き父の墓にお参りして涙を流したあと詩を作った

太平の世が長く続いて平和ボケした我が国の命運は困難なものとなり
才能に乏しい私は、このような時代を生き抜くことは難しいだろうと、みずから憐れむばかりだ
今後、亡き父のこの墓に再びお参りするのはいったいいつになるのだろうか
よし、ここはひとつ、あの世に行ってから丁重に父上にご挨拶申し上げることにしよう

先考:亡き父。養父吉田大助。松陰は幼時に実家の杉家を出て叔父吉田大助の養子となり吉田家を継いだ。養父吉田大助は松陰6歳のときに亡くなった。
:墓。
淚餘:涙を流したあと。
:治世。太平の世。
邦家:国家
天歩艱:天の運行に支障があって順調でない。時運が悪く困難が多い。《詩経小雅・白華》「天歩艱難、之子不猶」
高墳:高く立派に築かれた墓。ここでは父に敬意を表してこのように表現したものであろう。
:先祖の霊に対し祭祀をおこなう。ここでは墓参りをすること。
:よし、ままよ、さあ。軽い肯定の言葉。
:ここでは「於」とおなじく、場所を示す前置詞。
黄泉:あの世。
:ねんごろに。丁重に。
問安:安否を問う。転じて挨拶をする。

餘論

嘉永6(1853)年11月の作。この年の9月、松陰は長崎に来航しているロシア艦隊に同乗して海外へ渡航する計画を立てて長崎へ向かいましたが、長崎へ到着した時にはすでにロシア艦隊はすでに出航しており、この密航計画は未遂に終わりました。失意の松陰はむなしく引き返し、11月には萩に帰って亡き養父の墓に詣でて、この詩が作られました。この詩に漂う閉塞感はこのような背景によるものでしょう。