伊藤博文の漢詩 明治二十七年九月扈車駕赴廣島恭賦(明治二十七年九月 車駕に扈して広島に赴き 恭しんで賦す)

作者


原文

明治二十七年九月扈車駕赴廣島恭賦

大纛西巡秋九月
雲霞出海揭朝暉
緬懷神武東征日
正是古今同一機

訓読

明治二十七年九月、車駕に扈して広島に赴き、恭しんで賦す

大纛 西に巡る 秋九月
雲霞 海を出でて 朝暉を掲ぐ
緬かに懐ふ 神武 東征の日
正に是れ 古今 同一の機

明治27年(1894年)9月、帝の車におともして広島へ向かい、つつしんで詩を詠む

天子親征の軍が西国を巡りゆく秋九月
朝焼けの雲が海から湧いてきて朝日をかかげる
はるか遠く思い浮かべるのは神武東征のいにしえの頃のこと
まさに、当時の東征も今の清国との戦争も同じ重大な転機なのだ

扈:つきそう、おともする。扈従する。
廣島:明治27年(1894年)6月、日清開戦を前に大本営が設置され、開戦後の9月15日、明治天皇と大本営は広島へ移った。首相の伊藤もこれに従って広島に移ったのである。
大纛:天子の旗。天子の乗る車に立てるはたぼこ。転じて、天子の親征軍。
緬懷:はるかに思いやる
神武東征:神武天皇が日向を出発して東に向かい、奈良盆地一帯を征服して初代天皇に即位したこと。東征の途中、安芸(広島)に7年滞在したとされる。

餘論

明治27年(1894年)7月25日、豊島沖海戦で日清戦争が始まり、伊藤は内閣総理大臣として近代日本の国運を賭した戦争の舵取りを担うことになりました。すでに6月には大本営が設置され事実上の戦時体制となっていましたが、その大本営が9月に東京から広島へ移ることになり、陸海軍を統帥する明治天皇にしたがって伊藤も広島へ移ります。

この詩が詠まれた9月には、黄海海戦で日本が勝利して制海権をほぼ掌握するなど戦況は日本の優位で進みつつありましたが、日本側にも糧食不足などの不安材料があり、勝敗の帰趨はなお予断を許さない状況でした。神武東征の大事業を持ち出したのは、重責を担う自分自身を奮い立たせるためのようにも思えます。