渋沢栄一の漢詩 哭伊藤公(伊藤公を哭す)

作者


原文

哭伊藤公

異域先驚凶報傳
靈壇今日淚潸然
溫容在目恍如夢
花落水流四十年

訓読

伊藤公を哭す

異域 先づ驚く 凶報の伝はるを
霊壇 今日 涙 潸然たり
温容 目に在り 恍として夢の如し
花は落ち 水は流る 四十年

伊藤博文公の死をいたむ

異国の地であなたの訃報を聞いて最初はただ驚くばかりだったが
いま霊前に駆けつけてみれば涙がとめどなく流れ落ちる
温和な表情は今も目に浮かび、生前の思い出は夢のようだ
花が咲いては散り水が流れ去るうちに、出会ってから40年の月日が過ぎ去っていたのだなあ

哭:人の氏を悲しんで声をあげて泣く。
伊藤公:伊藤博文(1841~1909)。明治40年(1907年)9月に公爵に昇った。明治42年(1909年)10月26日、満洲・韓国問題についてロシアと協議するために訪れたハルピン駅で、韓国人安重根の銃撃を受け、暗殺された。11月4日、国葬が営まれた。
異域:外国。伊藤暗殺時、渋沢は実業団を率いて渡米中だった。
潸然:涙の流れ落ちるさま。
恍:おぼろではっきりしないさま。また、うっとりするさま。
花落水流:落花流水とも。散り行く花と流れゆく水。すぎゆく春の景色。人の身の落ちぶれるさまなどに用いるが、ここでは時が無情に過ぎ去ったことを言うのであろう。
四十年:明治2年(1869年)に民部省に仕官した渋沢が、当時、民部兼大蔵少輔であった伊藤と出会ってから、伊藤の暗殺まで、ちょうど40年となる。

餘論

91歳という長寿を全うした渋沢栄一は、親しい人たちにことごとく先立たれるという悲哀を一身に負うことを余儀なくされました。それでも寿命で亡くなったと思える人たちを見送る場合は気持ちを納得させることもできるでしょうが、今回の詩のように親しい人が暗殺された場合、どうやって気持ちを整理するのか、僕には想像もつきません。

起承の内容から、この詩は滞米中に伊藤暗殺の報を聞いた直後ではなく、12月に帰国後、おそらく墓に参ったか、自宅を訪ねたかした際の感慨を詠んだもののようですが、声高に憤りや悲しみを叫ぶことなく、抑制の効いた息遣いで純粋な追悼の気持ちを過不足なく表現しています。暗殺という事実を詩の中に持ち込まなかったのは、この詩に関しては正解だったと感じます。